ネクタイをするのが大好きだ
日本の夏はクールビズとか言ってネクタイ不要とされているし、ここタンザニアでも”ネクタイ文化”がない。
挙げ句の果てには、「見てるだけで暑苦しい」ってたまに言われる始末。
ネクタイにとってはずいぶんと世知辛いご時世だけど、私はそんなネクタイをするのが大好きだ。
ジメジメとした日本にいても、暑苦しいアフリカにいても、この10年間ずっとネクタイをつけてきた。
ネクタイって、同じ毎日持って歩くものでもハンカチのような「機能」を持ち合わせているものとは違って、下を向いた時に作業の邪魔になるとか、ランチのスープに入っちゃうとか、むしろ、なくてもいいものだ(タイピンのプレゼントまってる)。
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こんなに無機能でも私がネクタイをし続けるのには、仕事やその日一日に対する気持ちやテンションのマネジメントに一躍かっているからだったりするようだ。
前の日の夜に次の日のネクタイを選ぶ時もあれば、その日の朝に選ぶときもある。
とにかく選んでいる時は必ず、「明日(今日は)はこんな一日にしよう」ってなんだか前向きに想いながら、柄、色、手触りがもっともその時に心地よいと思う一本を決める。といっても、この間一瞬の5秒足らずだけれど。
そしてさらに、キュッっとネクタイを締めることそのこと自体が、”毎日の自分の儀式”であることに、ある時ふと気づいた。
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この“毎日の儀式”がなんとなく始まったのは、まだまだ若かった15年前、病院看護師として働いていた頃。
「白衣に着替えた後に鏡を覗く」ことが、当時の私の儀式だった。
「鏡をみて”ニコッ”って笑うの。こうすると大変だけど、頑張れる」
——— 私が大学生だった頃、現役看護師として働いていた母親がよく言っていた。
“ニコッ”とは恥ずかしくて笑えなかったけれど、鏡の自分に「よし」とかなんとか言って気合いを入れるのは、病棟に行く前に、医療者の頭とマインドに切り替えるためにとっても必要なことだった。
それほどまで緊張する職場と仕事だった。(医療従事者の方々、本当に尊敬しかない!)
その頃の「儀式をする習性」が、「ネクタイを締める」という形に変わって、今も自分の中にしっかりとくりかえされている。
今は、直接人命に関わるような緊迫したシチュエーションは殆どない。
けれど、同じ医療という分野で間接的にでも人命に関わる立場として、その全うすべき責任やタスクを感じて仕事をしたいと、きっとどこかで思っているのだと思う。
アフリカに来るようになってからの月日は、白衣と鏡ではなく、ネクタイと共に過ごしてきた。
そんなこれまでの私のネクタイ一本一本を手に取ると、辛かったこと、孤独だったこと、楽しかったこと、そんな喜怒哀楽と場面場面がたくさん蘇って来る。
そんなストーリーを持った私のネクタイは、みんなほんと素敵だと思う。
2020.03.16@ダルエスサラーム(タンザニア)