隣の人に「絆」は感じないの?
かつて「絆」という言葉が流行った。
それはまさに「流行る」という表現が似つかわしいほど繰り返され、
いまは一気に姿を消して、それこそ災害の場面でしか耳にしない。
私には不思議に思うことがある。
あれほど「絆」を連呼した現代人が、なぜすれ違う人に
平気でぶつかれるのか。
朝8時のJR山手線「渋谷」駅ホーム。
乗客の姿を見れば、明らかに身体を、人にぶつけながら
前に進んでいる。それは、ちょっと控えめとはいえラガーマンに近い。
私はこれを不可抗力とは言わない。
なぜならそれは、
人にぶつかることを戦術と心得るかのように行われるから。
私はこれをラッシュアワーのホームだからとは言わない。
なぜなら、
スマホを見る時間があれば、ゆっくりと歩く時間もあるはずだから。
人混みで、キャリーバッグを視界から外して、その行方に責任をもたずに
歩く旅行者。バッグの車輪が人の足を踏んでも、
振り返ることもせず前に進む。
あたかも、ぶつかる方が悪いとでも主張するかのように。
幅1.5mの歩道を全速力で走る自転車、
細い道や通路で譲り合わない男女、
カートを見ずにスマホを見ながら買い物をするスーパーの客。
すべてが、ぶつかる可能性を無視して行われ、
実際にぶつかる事故が起きている。
遠くの人との「絆」を叫ぶのと同じく、
まず、すぐ隣の人に「絆」を感じてほしい。
「隣人を自分のように愛しなさい」と言ったマザー・テレサや、
「目の前の人間を大切にすることで世界を変えられる」と言った
フリーハグ活動の桑原穣一さんの言葉に共感しつつ私は、
隣にいる人を思えないなら、世界平和を語る資格はない、とさえ感じる。
なぜなら一市民の荒んだ意識が、結局は、争いの温床となるからだ。
隣にいる人を思えないから、○○○が、○○○が、○○○が、
○○○する、○○○する、○○○する。
それを語ると際限がなくなるから、もうおしまい。
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