「(私)なんて」? 気が向いたら、その言葉「なんて」を辞書で引いてみてください。
■「なんて」の考察
“柔軟性”を評価していた
岸辺みどり(池田エライザ)から
「そんなっ、私なんて全然」と、
自らを否定する言葉が返ってきたとき、
松本先生(柴田恭兵)は、
冒頭の言葉を投げかけたのです
(『舟を編む 〜私、辞書つくります~』第1回)。
*
「新明解国語辞典」(第三版)によれば、
「なんて」は、
「その真偽について意外に思う気持ちを表わす」
とある。
「意外」は「以前に考えていたことと実際が
ひどく違う様子」(同辞典)とあるので、
みどりは「私には柔軟性なんてありませんよ」と
卑下したことになる。
卑下とは、
「自分を、人より卑しいとか劣っているとか
思っている様子をすること」(同辞典)だ。
■言葉への責任
みどりが配属された
辞書編集部で
中型辞書「大渡海」の
監修を務める
松本先生は、続けて
「辞書はあなたを、褒めもしませんが、
決して責めたりもしません。
安心して開いてみてください」。
と、少しばかりの微笑みを浮かべながら、
辞書で調べてみることを勧める。
松本先生は恐らく、
「そんなに自分を卑下しては、
いけませんよ」と言う代わりに、
「自分が使う言葉の意味を
改めて考えてみてください」
と言いたかったのだろう。
そして、
「自分の言葉には責任をもて」と。
■日本語文法の消失
いま日本語は、
意味を込めて発音することなく、
単なる平板な音の羅列で発音される。
いま日本語は、
正しい常套句を確かめもせず、
勝手な“マイ常套句”が垂れ流される。
いま日本語は、
助詞がもたらす意味を考えず、
適当な感覚で変えて、
受動態なのに違う助詞を使って
知らぬふりして話される。
いま日本語は、
敬語本来の上下関係や内外関係の枠組が消え、
家族を敬い、外に向かって内を敬い、
私的な行為に他者の許しを請う。
「言語は変わるもの」と誰が言ったか。
いま日本語は、
英語で言えば、Is がareになっても
許される言語になり果て、
日本語文法は消え失せた。
そこに、
言葉に責任をもつ意識など皆無だ。