仮 笙の窟から江ノ島へ巡礼の旅 3
1,まず、目的の場所に着くまでが・・・
いよいよ、はるばる自宅より、
一泊二日の江ノ島への旅が始まります。
朝から出発することになりました。
でも、今日の目標は一日目は、
静岡の頼家公お墓、実朝公の首塚を訪れて、
その後、鎌倉に行くことだけです。
東名高速を3時間かけて、
休憩なしで修繕寺にやってきました。
最初はクルマの駐車場を探していましたが、
観光客が多くて時間がかかりました。
やっとここから目的の源頼家のお墓に向かいます。
10分ほど歩いて、ついに到着しました。
頼家のお墓だと思っていたのですが、ここで問題が発生しました。
2,源範頼の墓に到着
つまり・・・源頼朝の弟である「源範頼」のお墓でした。
説明看板を参照しながら、簡単にまとめると、
範頼は、鎌倉時代の初期に活躍した武将だ。
彼は源義朝の六男で、現在の静岡県浜松市にある蒲御厨で生まれた。
蒲冠者(かばのかじゃ)というあだ名がつけられた。
治承4年(1180年)、兄の頼朝と対立する義仲に立ち向かい、
弟の義経とともに義仲を倒した。
その後、一ノ谷の合戦で平家を破り、三河守に任命された。
しかし、頼朝と義経の関係が悪化すると、頼朝は範頼に義経討伐を命じた。
だが、範頼はこれを拒否し、頼朝に疑われるようになった。
建久4年(1193年)、曽我兄弟の仇討ちの際、頼朝が死亡したという誤報が流れた。
範頼は、悲しむ政子を慰めたが、そのことが幕府の資金横領の容疑をかけられるきっかけとなった。
範頼は百万遍の弁明を行ったが、最終的には修禅寺に幽閉され、
梶原景時に攻撃を受け、日枝神社下の信功院で自害したと言われている。
範頼の墓とされていた祠(ほこら)は、
現在の場所よりも西の小山地区の山腹にあった。
1879年(明治12年)、そこから骨壺が発掘され、
範頼が亡くなった場所の伝承を裏付けるものとして、
1932年(昭和7年)に現在の場所に墓が建てられた。
目的である源頼家のお墓に向かおうとしたとき、
お墓から視える街の風景が視えてきました。
とても見晴らしの良いところに、お墓があると思いました。
先程も説明板に書いてあったように、元あったところは、とてもさみしい場所。
地元の人達が、見晴らしの良い場所に移したのですね。
3,源頼家の墓
さて、最初の墓をあとにして目的の頼家のお墓へと来ました。
目的に看板にそってゆきました。
先程のお墓とは対象的に違い、日陰にある場所にひっそりとありました。
範頼と同様に修善寺で幽閉され、少し離れた場所にある温泉で入浴中に、
祖父北条時政の手でを暗殺されました。
4,13士の墓
そして、頼家の家臣13士の墓・・・
頼家の墓に寄り添りそうように、同じ敷地内に頼家の家臣13士の墓がありました。
元々は、現在の場所ではなく、台風のがけ崩れでこの場所に移転したようです。
頼家の死後、幕府に反旗を翻そうとしたしましたが、
その家臣たちは残念ながら、行動を起こす前に発覚してしまい、殺されてしまいました。
彼らは一般的に「十三士」と呼ばれていますが、具体的な名前は分かっていません。
5、釈迦如来坐像
そして、頼家の墓をあとにして、お隣の指月殿に向かいました。
この指月殿は、頼家の母北条政子が、非業の死を遂げた頼家の冥福を祈るために、建立したそうです。
非業の死を遂げた息子を思う母心でしょうか?
とても寂しく感じます。
6,二人の菩提寺 修繕寺
そして、最後の場所である範頼、頼家が幽閉された修善寺に向かいます。
私が着たときは、観光客も少なく、
当時の様子とは変わって、とても静かな場所でした。
時代に翻弄され、利権争いに巻き込まれて、勝手な事情で見殺しされるとは・・・・
この場所をあとにする前に、とても悲しい気持ちになりました。
源氏の二人から、「はやく、江ノ島にいけ」と伝言しているようにも思えました。
7、静岡から神奈川の首塚まで
次の目的地は実朝の首塚です。
静岡から神奈川まで高速道路を使って移動しました。
日が暮れる夕方に到着しましたが、暗くなっていたので、
明日の朝早くに改めて訪れることにしました。
今日はこれにて終了です。
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