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エッセイ 戦争の季節に思う

 戦争と死刑に関する私見を述べています。ご不快に感じられる方がいらっしゃるかもしれません。予めお断りしておきます。

 もう何年も前のことになるが、確か遠藤周作のエッセイだったと思うが、欧米では、戦争反対論と死刑廃止論は、その根本が同じだということを知らされた。つまり、人間が人間を死をもって裁くことはできないという考え方である。なるほど、とまさに目から鱗の落ちる思いがした。
 戦争とか死刑というものを、知的に、論理的に突き詰めて考えていかないと、こういう結論にはなかなか辿り着けないのではないかと思う。欧米に対して日本では、戦争反対は声高に叫ばれるが、死刑廃止論はそれほどでもないと感じている。そこには被害者意識が大きく関わっていると思う。戦争で大きな被害を受けたから戦争はしてはいけない、あるいは、加害者に身内を殺された被害者遺族の怨みは相手の死をもってしか償えない、といった感情論が、知的な働きに勝っている。こういう心理状態だと戦争と死刑というものは結びつきにくいのではないか。
 当事者にしかわからない被害者意識というものは、無視できない大きなものだが、意地の悪い言い方をすれば、被害者にならなければ、つまり、勝つ戦争ならしてもいいのかという論理に陥る危険性も孕んでいる。被害者のいない戦争はない。加害者と被害者という分類と、勝者と敗者という分類は必ずしもイコールではない。そこに善悪という概念を絡ませるとさらに複雑になってくる。善人→被害者→勝者という単純な勧善懲悪の論理が通用するのは時代劇だけだ。世界はそれほど単純ではない。
 戦争による被害者をなくすということは、とりもなおさず、戦争をしないということになる。凶悪犯罪による被害者だけでなく、死刑となる加害者をなくすためには、凶悪犯罪のない世の中をつくることだ。不可能に近い難題だが、それを成し遂げない限り、地球上から被害者の涙が消えることはない。

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