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続・座標軸 恋愛編

 青春編に続けて恋愛編といきたい。青春編が外へのダイナミズムと定義したのに対して、恋愛は内へのエロティシズムと定義したい。人を好きになれば、どうしてもそこに肉体的な欲望が発生する。そしてそれはエスカレートしていく。手を握れば、次は唇・・・といったように。この、もっと、もっと、(体の内側へ)という感じをエロティシズムという言葉で表現した。もちろん恋愛はそれだけでは収まらない。独占欲(被独占欲)、支配欲(被支配欲)・・といった精神的な働きも関係してくる。いずれにしても、それらは個人的で内面的(外から見えにくいという意味で)な活動である。相手の心も体ももっと知りたい、自分の心も体ももっと知って欲しい、いう気持ちが内へ内へと向かい、深みに落ち込んでいく。どこか外国に旅行がしたいとか、外へ向かう希望が生まれるのは、ふたりが結ばれたあとのことである。
 青春期における恋愛は、外へ向かうダイナミズムと、内へ向かうエロティシズムを兼ね備えた最強の状態と言える。
 ふたつの映画シリーズを例にとってみよう。古い映画で恐縮だが、加山雄三主演による東宝の「若大将シリーズ」。あれは、高度経済成長時代の、最も期待される青年像を描いたもので、明るく健康的で、スポーツ万能。いい男で女にもモテモテ。ダイナミズムをスポーツという形で描いた。水泳、ヨット、スキー、サッカー・・・ありとあらゆるスポーツに挑んで(作品は異なるが)、成功を収めていく。一方恋愛の方はどちらかというと奥手で、女性の方から言い寄られる感じである。このスポーツによるダイナミズムと、恋愛によるエロティシズムの両立。これこそが青春映画の必要不可欠な二大要素といえよう。
 これに比べて松竹の「男はつらいよ」シリーズは、「若大将」を陽とするなら、陰。高度経済成長から、のけものにされた日陰者の話である。しかしそこにもダイナミズムはある。全国を放浪して香具師の仕事を続けていくというダイナミズムが。そして恋愛。これも枚挙にいとまがない。しかし、エロティシズムの発散に至らずに終わってしまうことが多いが。「男はつらいよ」もまた車寅次郎の青春物語といえよう。「若大将」は加山雄三が若いうちに終わったからよかったが、「男はつらいよ」は長すぎた。渥美清がめっきり老け込んで、哀れっぽさを滲ませながら、妙に分別くさいことを言うようになっては、青春映画とはいえない。


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