科学論入門 (佐々木 力)
科学と技術
科学史の基礎を勉強しようと思い読んでみました。
明治期以降の日本での西欧科学受容の動きや、科学革命が西欧で起こり、他の文明共同体たとえばイスラーム世界や中世ラテン世界で起こらなかった理由等についての解説は興味深いものがありました。
後者に関しては、中世西欧における「科学の成立プロセス」について、著者は以下のようにまとめています。
(p58より引用) 近代科学は「高級職人」的技芸の段階にとどまるのではなく、その技芸に学んで独自の仕方で「哲学」した学者たちによって建設されたのである。
こういう「高級職人」と「哲学者」との出会いが、数学的記述を伴いルネサンス期以降の西欧に起こったと言うのです。
これに対して、イスラーム世界や中世ラテン世界の状況については、以下のように説明しています。
(p62より引用) イスラーム世界でも中世ラテン世界でも、たしかに職人層が存在し、高等教育も一定程度社会の中に根づいていた。しかしながら、自然哲学は周辺的学問にとどまり、さほど重視されなかった。それのみならず、それをテクノロジー科学へと飛躍させるのを阻む思想的歯止めが厳として存在していた。それからまたテクノロジー科学を成立させる社会的弾みも存在していなかったのである。
両世界とも「科学」を飛躍させるために必要なプレーヤは存在していたのですが、政治的・宗教的な専制体制がそれらの融合や拡大を阻害したようです。
その他、著者は、数学から自然諸科学を介し医学へと至る西洋諸学の方法概念について、「分析」と「総合」という対概念を特徴的なものとして紹介しています。
(p136より引用) 西洋諸学には実は古代ギリシャ以来、その基礎でおおいに働いてきたある種の方法概念が存在する。それは分析と総合という対概念である。とりわけ分析は、古代数学における証明や解の発見法として定式化され、論理学や医学でも探究の導きの糸を表す基本概念として機能した。そして、それは十七世紀の科学革命とともに自然科学一般においても重要な方法概念として再定式化された。・・・
他方、数学における総合とは、解析で得られた、より根源的なもの(公理などの原理的なもの)から、目指す探究中の命題を証明したり、作図したりする、分析とは逆の手順をいう。数学における総合は、論証、演繹と同一視される場合がある。
このあたりの解説はとりわけ目新しいものではありませんが、これらの方法概念が自然科学一般に定着したのは、やはり17世紀ごろであったという点は再度押さえておきたいと思います。
このように中世西欧で花開いた「科学技術」ですが、この科学を礎とした「技術」の有り様について著者はひとつの危惧を提示しています。
(p107より引用) 一般に、技術者にとって自らがかかわっている技術の全体的ヴィジョンを把握することは、その技術にまつわる倫理的・社会的コンテクストの理解のためにはもちろん、当該技術を成功裏に開発するためにもきわめて重要である。「全体的ヴィジョン」は「心眼」とも言いかえられる。科学的工学の教育を受けただけの技術者・・・は、この「心眼」をもたない傾向性が強い。・・・
技術者が当然もつべき「心眼」をもたず、社会的モラルを欠いた科学者が引き起こす問題を、フォン・ノイマンにちなんで、試みに「フォン・ノイマン問題」と名づけておこう。
「技術の独善」に対する警鐘です。
奉仕する科学技術
著者は、日本及び西欧の科学史を概観した後、科学技術に関する現在の喫緊の課題について論じています。
まずは、著者の「20世紀の評価」です。
(p176より引用) 二十世紀が終ろうとしている。省みれば、この世紀は未曾有の残酷な時代であった。ことに第二次世界大戦は、科学がからんだ総力戦であったことが印象的である。・・・周知のように、アウシュヴィッツには医学者の多くがかかわり、ヒロシマとナガサキには物理学者が深く加担したからである。
ここに、著者としての「現代科学技術に対する大いなる遺憾の念」が表明されています。
(p179より引用) 科学について一般にわきまえておかなければならないのは、それが私たちの日常的知識よりはるかに高いレヴェルの知識を提供してくれるものの、決して無謬でも全能でもないことである。
特に、科学技術が先走っている昨今の代表的事例として、物理学の流れからは「原子力エネルギー」、医学の流れからは「臓器移植」の問題を取り上げています。
著者は、「科学」と「技術」とを峻別して論じています。
(ア) (p209より引用) 技術には、科学のようには、自由は許されない。もっと適切な言葉を使えば、技術に放縦は許されない。
たとえば、「原子力」に関してはこういう指摘です。
(p204より引用) 量子力学以降の原子物理学は二十世紀科学の最大の精華と見なされうる。その意味で、それは“科学の勝利”である。だが、それに基づく原子力テクノロジーは不完全、というより欠陥をもつことがますますはっきりしてきている。それが科学が教えてくれている事実なのであり、換言すれば、“勝利”した原子物理学は、明白に原子力技術の“敗北”を示唆しているのである。
この点は、後年、東日本大震災での福島原子力発電所事故で不幸にも証明されてしまいました。
科学のひとつの具現形としての「技術」について、著者はその独断専行は許さずというスタンスです。
「独断専行」を許さずコントロールする方策の一つとして、著者は「倫理学」による考察に期待します。現実的な社会通念のフィルターにかけるのです。
(p207より引用) 科学技術がいかに遂行されるべきかについての問題で倫理学的考察の出番が多くなっている・・・そういった考察がたんに抽象的な議論に終始することなく、法学や経済学などに関係した、より現実的な社会科学的理論建設まで進まなければならないのが今日の問題状況だろう。
そして、技術を一般社会に取り込むプロセス(技術の制度化)において、受容者がイニシアティブをとることが必須であると説きます。
著者が示した受容者の復権ための具体的な方策が「インフォームド・コンセント」の考え方です。すなわち、「技術についての必要にして十分な情報の開示を求め、それが得られたうえで同意を与える」というルールです。
(p211より引用) 技術は提供者から一方的に提供されるべきものではなく、受容者が選択すべきものである。・・・技術者の“無政府主義的”なやみくもな開発は、受容者側の民主主義的な「インフォームド・コンセント」に基づいてコントロールされるべきである。
この点は最近では「遺伝子工学」や「分子生物学」の世界でも重視されているテーマですね。
こういった記述からみると、著者の「科学技術に求める姿勢」は明確です。「人間中心」ということです。
(p173より引用) 科学技術はすべからく人間の苦悩を軽減するように創造され、機能すべきなのである。現代の科学技術は、この原点に帰り、この観点から総点検されなければならない。
さらにその姿勢は、歴史を遡り古代ギリシャの医聖に至ります。
(p222より引用) 現代科学技術を論ずる私の基本姿勢は、「科学技術論の医学史モデル」という標語で言い表される。それは科学技術の本来の目的は悩める人を癒し助けることであり、その「癒しの術」のありようは歴史的観点から知ることができるという立場であった。・・・
西洋医学の父であるヒッポクラテスは、こう言い遺した。「人への愛の存するところには、またいつも学芸(テクネー)への愛がある」。
原子力や臓器移植等、科学技術が無自覚に自己増殖に突き進んでいるという認識の中、本書の結語において、著者の真摯な想いと強い決意が顕かにされています。
(p223より引用) ここに「人への愛」のために奉仕する技芸(アート)の本来の究極の姿がある。
これが、フォン・ノイマンのような生の軌跡をたどることを忌避して数学者の世界を飛びだし、数学史家に転じ、彼とは対極的な半生を意識的に歩んできた学徒の科学論が到達した、とりあえずの結論である。
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