考えあう技術(苅谷剛彦・西研)
考えることの協創
社会教育学者と哲学者の「考えることの協創」です。
議論は「教育」を題材にしています。その内容はともかくとして、バックボーンが異なる人同士の思考の展開(拡大と収斂)の様が読んでいて興味深いものです。
「学校へ行くこと」の意味づけを憲法に謳われているいくつかの権利との関わりで考えてみるといった「新たな思考の切り口の提示」等はとても参考になります。
また、以下のような技術論と原則論を峻別するという論理の王道が随所に見られます。
(p90より引用) 技術論はいろいろありうるし、やってみてまずければ修正していけばいい。しかし「何のための学校か」「学校が果たすべき役割は何か」ということの原則はハッキリしている必要がある。
「意味づけ」を明確にして思考を深める実例です。
ただ、本の内容に関しては、残念ながら社会学的・哲学的素養のない私には、その中味までは理解できませんでした。特に後半部分は私にとっては半ば禅問答のように感じられました。
社会教育学者と哲学者が共振しながら議論を進めている形はハッキリ見えるのですが・・・私の力不足のために少々消化不良でした。残念です。
意味づけの説明
(p51より引用) 学校へ行くことの意味というのは、子どもの納得の論理として議論する話なのか、大人の社会が合意として話すことなのかで違うということです。
ちょっと理屈っぽい言い方になりますが、この場合、少々気になる点があります。「子どもの『納得』の論理」という部分です。
これには、2通りの意味が考えられます。
ひとつは、「学校に行くことの意味」を「子ども」の立場でも(「大人」の立場とは別の)独立したissueとして考え、それを子どもにキチンと説明し納得を得るというケースです。
もうひとつは、「学校に行くことの意味」は、「大人」の立場からだけ議論(大人の社会のみで合意)し、子どもに対しては、ともかく子どもが分かるような別の理屈で納得させるというケースです。
後者の場合は、「目的と手段の階層構造(手段A →目的B=手段B→目的C・・・:手段Aは目的Bを実現するためにあるが、目的Bはさらに高次の目的Cの手段になる)」とも考えられます。
が、「大人の考えが間違いないのだ」とか「どうせ子どもに説明しても分からないだろうから、適当な理由をつければいいのだ」といった考えによるものだとまずいと思います。(さらに、「理由なんかどうでもいい、ともかく行くんだ」といった理屈も何もない強要になってしまうと最悪です)
この類いのことは、「学校の意味づけ」に限らず、いろいろなケースに当てはまります。
たとえば、「企業戦略の意味づけ」についての「経営層」と「社員」の場合とか、「戦争の意味づけ」についての「参謀本部」と「一兵卒」の場合などです。
「経営層や参謀本部」の意味づけは、それにより直接影響を受ける全ての人にとって、その意味自体が納得されるものでなくてはなりません。その意味を伝える「説明ぶり」が、伝える対象に何とかして分かってもらおうという「工夫」であればそれは(ある種)望ましいことです。が、万一にも「真の意味」を隠す強弁であってはなりません。
(注:この文章は10年以上前に記したものです。今、読み返してみると、当時は何をこれほど気にしていたのかと、我ながら少々理解し切れないところがありますね。)
起業家精神の芽
(p54より引用) 財界人とかが日本の教育を批判するとき、今の若者には起業家精神が欠けているなんて指摘する。そのときに、たいてい引き合いに出されるのがアメリカの個人主義の社会ですね。・・・もちろん個人も重要なんだけど、もう少し小さい単位での複数の人間が集団を立ち上げる。起業にしても、たいていは複数の人と企業を興すのであって、個人業ではない。複数の人間がなにかを立ち上げるというときの能力は、必ずしもばらばらな個人をつくりだすためでもない。・・・複数の人たちが集まり、集団を立ち上げようというのは、いわゆる共同体主義とは違う思想ですよね。
「集団を立ち上げ営む能力」は、「個人主義」でもなければ「共同体(集団)主義」でもないところから発する能力のようです。
これは、それら二つの考え方の「中間」にあるというよりも、その二つを包含した「より上位層の考え方」のように思います。
すなわち「個人主義的な独創性やリーダシップ」と「集団主義的な協調性やチームワーク」との双方を必要条件とする能力なのです。
こういった能力は、少なくとも「ひとりだけの環境」では決し身につけることはできません。「試行錯誤できる集団」の中で身につけるのが一番で、だとするとそのひとつの有力候補は「学校」ということになります。
ただ、その学校も、
(p88より引用)個性重視というからには個別の対応が優先されるはずだから、ルール自体を柔軟にすればいいのだけど、ルールの柔軟化ではない。
という状況ですから、様々な個性(のたまご)が他者との関係の中で磨かれる「テストベッド」としての役割を果たすのは、現実的には難しいようです。
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