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私の個人主義(夏目 漱石)
今から15年以上前のBlogの再録です。
道楽と職業
今から20年以上前の学生時代に読んだ本です。
今までも何度か読み直したいと思っていたのですが、ようやくリバイバルです。
(p19より引用) 自分のためにする事はすなわち人のためにすることだ。・・・それをちょっと数学的に言い現わしますと、己のためにする仕事の分量はひとのためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つのであります。・・・人のためになる仕事を余計すればするほど、それだけ己のためになるのもまた明らかな因縁であります。
漱石によると「職業」とは「人のためにやる仕事」ということになります。
そうすっきりと割り切ってしまえば、日々の仕事も楽になるかもしれません。仕事を「自己実現の場」と考えると、思い通りにいかずフラストレーションがたまったり幻滅したりするのです。仕事は人のためにやるものだ、だから自分の思い通りにいくとは限らないんだと思えばいいのです。
「職業」の対極は「道楽」で、これは「己のためにする仕事」です。
科学者・哲学者・芸術家がその代表で、「自己本位でなければ到底成功できない」と論じています。これは漱石一流の「近代個人主義思想」と軌を一にするものです。
現代日本の開化
(p62より引用) 我々の遣っている事は内発的ではない、外発的である。これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるということに帰着するのである。・・・今言った現代日本が置かれたる特殊の状況によって吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。
本講演は明治44年(1911年)に行なわれました。この明治末期の日本は、先の日清・日露戦争で勝利し、欧州列強と肩を並べたという自信を感じていたころです。
そういった時代背景の中で、漱石は、
(p61より引用) 自分はまだ煙草を喫っても碌に味さえ分からない子供のくせに、煙草を喫ってさも旨そうな風をしたら生意気でしょう。それを敢えてしなければ立ち行かない日本人は随分悲酸な国民といわなければならない。・・・西洋人と交際する以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくとも宜いといえばそれまでであるが情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょう。
と覚めた目で論評しています。
(p66より引用) ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案は何もない。ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない。
この後、日本は欧米列強との張り合いを強め、第一次世界大戦・第二次世界大戦に飛び込んでいくのです。外発を源とした上滑りの西欧化を日本の実力と錯覚した悲劇です。
中味と形式
(p85より引用) 要するに形式は内容のための形式であって、形式のために内容が出来るのではないというわけになる。もう一歩進めていいますと、内容が変れば外形というものは自然の勢いで変って来なければならぬという理窟にもなる。
漱石にして至極当然のことを論じています。
このことから、当時の世相は、人々の実生活が変っているにもかかわらず、旧態の「形式」が強要されていた様が見て取れます。
この形式による中味の抑圧が当時の社会運動の弾劾に現れ、結果、その後の大正期の「憲政擁護・閥族打破」をかかげた護憲運動に繋がっていくのです。漱石の見通しのとおりです。
(p89より引用) そこで現今日本の社会状態というものはどうかと考えて見ると目下非常な勢いで変化しつつある。それに伴れて我々の内面生活というものもまた、刻々と非常な勢いで変りつつある。・・・既に内面生活が違っているとすれば、それを統一する形式というものも、自然ズレて来なければならない。もしその形式をズラさないで、元の儘に据えて置いて、そうしてどこまでもその中に我々のこの変化しつつある生活の内容を押込めようとするならば失敗するのは眼に見えている。
文芸と道徳
(p111より引用) 普通一般の人間は平生何も事の無い時に、大抵浪漫派でありながら、いざとなると十人が十人まで皆自然主義に変ずるという事実であります。という意味は傍観者である間は、他に対する道義上の要求が随分と高いものなので、ちょっとした紛紜でも過失でも局外から評する場合には大変に苛い。すなわち己が彼の地位にいたらこんな失体は演じまいという己を高く見積る浪漫的な考えがどこかに潜んでいるのであります。さて自分がその局に当ってやって見ると、かえって自分の見縊った先任者よりも烈しい過失を犯しかねないのだから、その時その場合に臨むと本来の弱点だらけの自己が遠慮なく露出されて、自然主義でどこまでも押して行かなければ遣り切れないのであります。だから私は実行者は自然派で批評家は浪漫派だと申したいくらいに考えています。
「他人に厳しく、自分に甘く」というのは、私自身もそうですが、どんな人でも知らず知らずに陥る姿です。
また、自分(のみ)を基準にして考えやすいので、自分が得意とするジャンルについての「他人に対する評価」は厳しくなりがちで、逆に、自分が不得意なジャンルについての「他人に対する評価」は(自分ができない分)甘くなってしまいます。
(p114より引用) それやこれやの影響から吾々は日に月に個人主義の立場からして世の中を見渡すようになっている。従って吾々の道徳も自然個人を本位として組み立てられるようになっている。すなわち自我からして道徳律を割り出そうと試みるようになっている。・・・昔の道徳すなわち忠とか孝とか貞とかいう字を吟味して見ると、当時の社会制度にあって絶対の権利を有しておった片方にのみ非常に都合の好いような義務の負担に過ぎないのであります。
漱石の言う「個人主義」は、私なりに極めて簡略化してみると、「自分も他人も『個人』という観点からみると同じく公平なものだ」との考えだと思います。
これは、ある種の相対論的考えであり、バランス論でもあります。自分と他人とがバランスする、権利と義務とがバランスするといった感覚です。
(p117より引用) けれども自然主義の道徳というものは、人間の自由を重んじ過ぎて好きな真似をさせるという虞がある。本来が自己本位であるから、個人の行動が放縦不羈になればなるほど、個人としては自由の悦楽を味い得る満足があるとともに、社会の一人としてはいつも不安の眼を睜って他を眺めなければならなくなる、ある時は恐ろしくなる。その結果一部分の反動としては、浪漫的の道徳がこれから起こらなければならないのであります。・・・けれども・・・大体の傾向からいえばどうしても自然主義の道徳がまだまだ展開して行くように思われます。
私の個人主義
(p145より引用) 第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。
漱石の「個人主義」のエッセンスを凝縮したものです。
よく言われることですが、「個人主義は利己主義とは全く別のもの」です。むしろ対極にあるといってもいいでしょう。
自分は大事です。自分という「個」は大事です。他人も他人からみると「(自分という)個」です。「自分の『個』」を大事にするのなら、当然、同じく「他人の『個』」も大事にしなくてはなりません。そういう「個人主義」は決して利己主義ではないのです。むしろ自分と同じく他人を尊重するという考えです。
かといって、謙遜主義でもありません。他人に諂っているわけではありません。自分は自分で「個」として自立し、権利も有し義務も果たすという姿勢です。
(ただ、最近読んだ本には次のような記述がありました。サルトルによると「『自他の自由を尊重しあえ』などとの近代観念論の欺瞞的な人格主義モラルも瓦解する」のだそうです。さすがに、今からサルトルを読む元気はありません・・・)