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人はどこまで生きて、いつ潮時なのか 〜勿忘草の咲く町で 夏川草介〜

▶︎勿忘草という花を聞いたことがあるだろうか。基本的には日本では北海道が自生地となっている花で、本州の人間からしてみれば、馴染みはほとんどないだろう。本州では唯一長野県の上高地で見ることができるが、ほとんど目にすることはないので、花の存在すら知らなくても無理はない。

▶︎無論関東に住む私は、恥ずかしながら勿忘草という名前すら耳にしたことはなかった。花に格別の思いも持たない私は、道端に四季によって移り変わる野花を見ても、「ああ、花が咲いているな」くらいにしか思っていなかった。しかし、ある小説を読んで、そこらに咲いている小さな野花にも関心を持つようになった。力強く道端でも自生している野花。生きる強さ、美しさが表立っているが、いつか死ぬという現実は美しさの裏に隠されている。

▶︎勿忘草の咲く町で〜安曇野診療記〜 夏川草介氏の小説は、まさに今、我々が読むべき、いや、読まなければならない作品だ。松本市にある梓川病院を舞台に、看護師の美琴と研修医の桂が、高度に医療が発達した中で、多くの高齢者にどこまで「生きるため」の処置をするべきなのか、という重大な難題を、自分なりの答えを模索しながら、逼迫する医療現場で奔放する姿を、四季折々の花とともに描き出している。医療が発達し、救える命が増えた一方、チューブや機械に繋がれて、ろくに話もできない状態でも、延命処置をし生物学的に「生きる」ことを選択するのは本当に正しいことなのか。実際に医師として現場を見てきた作者が、生々しくも、花や移りゆく松本の自然を織り交ぜながら、重く暗い空気にならないよう、私たちに「自然な形で」訴えかけているのである。

▶︎今、コロナの影響で医療に注目が集まる中、我々がいかに高度な医療を美化し、そこに潜む「生と死」の問題から目を背け続けてきたのかが、この小説によって明らかになっている。あなただったら、どう考えるか。「やれることはなんでもやれ」といい、話すことも食べることもできない、帰る場所もなく、また退院したら老人ホームに入る。そんな状態でも、機械とチューブを頼りに生物学的にただ生きていたいか。

▶︎勿忘草の花言葉は「私を忘れないでください」だそうだ。死にゆく人も家族や友人とのつながりを持つ人もいれば、つながりも切れ、1人で孤独に死んでいく人もいる。いくら延命したところで、「忘れられた人」となっては、最早死んだも同然ではないだろうか。人はどこまで生きて、いつ潮時なのか。答えのない難題を、夏川氏は改めて私たちに伝えてくれる。


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