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リスボン・デイズ #2 〜大航海時代!世界を旅した人たち〜

世界多分一周旅の途中。

ポルトガルのリスボンの街をあちこち歩き回る日々だったが、ベレン地区という場所に、よくテレビや雑誌で見かける英雄が並んでるモニュメントや修道院などの観光スポットがあるらしいので、トラムに乗ってちょっとだけ足を延ばして、ベレン地区に行った。

ベレン地区(Belém)は、ポルトガルのリスボンにある歴史的な地区で、Kindle無料版のちょろっと見たガイドブックによると、主な見どころは
①ジェロニモス修道院、、
②発見のモニュメント、
③ベレンの塔、
④発見者の庭
の4つらしい。
そのあたりを観光してみることにした。


ジェロニモス修道院(Mosteiro dos Jerónimos)

トラムはジェロニモス修道院の目の前に止まった。降りて近寄ってみると、かなり大きくて美しくて荘厳である。ただし、その驚きを上回るくらい長い長い列が作られていて、気持ちがしょんぼりしてしまう。こんなの並ぶ気力がないよ…。ネットでの予約も何もしてきておらず、またネット予約をしても1時間ほど並ぶとの情報だったため、有料部分は諦めて、無料部分だけ見学。このジェロニモス修道院は、「マヌエル様式」の建築とのことで、聞いたことないなマヌエル…と思っていたが、調べたところによると、簡単に言うと後期のゴシック様式に、大航海時代の交易での儲けをド派手に誇示しようぜという方向性で、俺たち大航海したしってことで、海の象徴を細部に取り入れてる。めっちゃ簡単な説明でいうとそんな感じ。イカリとかロープとか波とか貝殻とかインドの植物とか、そういうモチーフがゴシック様式の中にちりばめられてるのが面白いなと思った。この修道院には、美しい回廊とヴァスコ・ダ・ガマの墓があるらしいけど、それは見れず。回廊ファンとしては、ここの回廊を見られなかったのがポルトガル最大の心残りの一つである。また来たい。

めちゃくちゃ
並んでる
イカリとか波とか見つけられます?
こちらは分かりやすいかな。
イカリとロープのモチーフ
ジェロニモス修道院デザインの
オリーブオイル缶を買った。
お気に入りでずっと使ってて、
空になってからも大事にしてたのに、
コロンビアの空港で空なのに没収されたのは、まだ許してない。


ナタ発祥の店(Pastéis de Belém)

ナタを食べまくっている私としては、ここは避けて通れないので、他の観光名所に先立って向かったのが、このナタ発祥の店。
列をなしていたがためらいなく並んだ。テイクアウトの列の方が短かったので、2個買って、近くの公園で食べることにした。
この店のナタの発祥の言い伝えが好きだから、ここで紹介したい。言い伝えレベルなので真偽は不明だが、エンタメとして読んでもらいたい。

ジェロニモス修道院では昔からたくさんの鶏を飼っていて、修道士としてここに入る時には鶏を持ってやってくるという習わしがあった。
たくさん生まれる玉子の白身は修道士の祭服の糊付けで使っていたため、大量に黄身が余っていた。そのため、この黄身で何か作れないか、と修道士たちが考えて生まれたのが、黄色いエッグタルト、「ナタ」であった。
このナタのレシピは門外不出で、絶対に文書化せずに言伝えで作り方を継承してきている。
1人が全工程を知るとその1人が独立して外に出ちゃう危険性があるから、2工程くらいに分けて、それぞれ2人ずつがその工程の作り方を把握するという形をとっている。
現在レシピを把握してるのが4人で、全員が一緒の交通機関に乗って全員が死亡するとこのナタは誰にも作れなくなってしまうから、トップアスリートのように4人一緒の行動は禁止されてるという。ほんまかいな、な伝説。

いろんな情報を私なりにまとめたざっくりした解釈

いやいや。門外不出すぎるし、そんな訳ないやん。ポルトガル中にナタの店が溢れてるから、完全にレシピが漏れてる。情報漏洩しまくり修道院。でも漏洩したおかげであちこちで食べられるから、むしろ感謝。

1個195円(当時)
テイクアウトなので、
砂糖とシナモンを別でもらった。
これが門外不出レシピのナタやで!


とはいえ、ここの店のナタの皮のパリパリ具合は圧倒的だった。冷めてるのに揚げたての春巻きかと思った。多分レシピが中国人に漏れて、春巻きに応用されたと思われる。そういう言い伝えがあったら、きっと私は信じる。他のナタの店との味の差までは分からない素人舌だが、中身はしっとり滑らかに例に漏れず美味しいのは分かる。パリパリ具合はこの店が優勝。それ以外はナタ関係者全員優勝。
余談だが、砂糖とシナモンをかけて食べるのを忘れた。忘れてたことを忘れて、半日くらい過ぎて、ポケットの中から砂糖とシナモンが出てくるまで思い出せなかった。46歳の旅人の現実であった。

発見者の庭(Jardim da Praça do Império)

そんな春巻きナタを食べたのはこちらの美しい庭園。

ジャカランダは散っていて、
右足の親指の爪は死んだ色をしている6月。


発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)

これは、大航海時代の探検家たちをたたえる船の形をした記念碑。高さは52メートル。本や写真で見ていた時には想像していなかったサイズ感。巨大すぎて驚いた。ジェロニモス修道院と同じく、このモニュメントも海に面していて、ここの海から広い世界へと航海に出たのか、とロマンを感じた。(実際は、ここはまだ海ではなくテージョ川という河口だったことを後で知ったけども。)

大海原じゃなくて、まだ川だった。
近代の最先端の乗り物と、大航海時代
このサイズ感は予想を超えてた。

このモニュメントは、先頭がエンリケ航海王子で、その他のポルトガルの探検家などが30人並んでいる。エンリケ航海王子という存在はこの時初めて知ったのだが、15世紀のポルトガル王国の王子で、王子自身は探検に出なかったものの、大航海時代の幕開けを象徴する人物だったらしい。インドへの航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマや、世界一周を達成した探検家のマゼランなどがいる。
ヴァスコ・ダ・ガマは、インドのコーチンやゴアを旅した時によく見聞きした名前だ。ポルトガルから東インドまで航海し、確かインドのコーチンで亡くなったとコーチンで聞いたような…。思えば、私の頭に浮かぶポルトガルのイメージは、マカオ(主にエッグタルト、ナタ)や南インド等の教会や町の雰囲気など、元ポルトガル領が基になっている気がする。アジアのあんな遠い場所まで海を旅したなんて、飛行機で飛んでやって来た私の想像を超える冒険だったように感じる。
マゼランと言えば、1519年に初めて世界一周を達成した航海者だと習った記憶だったが、実はフィリピンで亡くなっていて、マゼラン亡き後にそのマゼラン艦隊がフィリピンから帰って来て世界一周を達成したよう。265人いた船員は次々に壊血病や争い等で18人に減っていて、とにかく過酷な船旅だったらしい。マゼランについて学んだことはほとんど忘れているのだが、私が今も覚えていることとして、人は長期間ビタミンCを摂らないと壊血病で死ぬということ。私も令和時代の世界一周探検家のはしくれとして、ビタミンCは積極的にとっていく所存である。

先頭:エンリケ航海王子
3番目:ヴァスコ・ダ・ガマ
5番目:マゼラン
ツアーガイドの説明を盗み聞きする
悪い癖を発揮した。
私も行ったことある場所を
見つけると嬉しくなる。
割と正確に書けてる方だと思う日本。
能登島、淡路島などが省略されてる。
1543年(以後予算なくなる鉄砲伝来って習ったけど2年早いやんの謎。
今後、飛行機で越える予定の未知の大西洋。


ベレンの塔(Torre de Belém)

テージョ川の河口に建つ防衛塔で、ポルトガルの大航海時代を象徴する建築物、ベレンの塔も見学し、ベレンの観光は終了。

これもマヌエル様式。
イカリマークがある。

ベレンでの観光を終えトラムでリスボンの町に戻ることにした。リスボンで、もう一か所どうしても寄りたい教会があったのでそちらに向かう。

その前にレシピが流出したのかどうか確認する名目で、別の店のナタを食べることに。ポルトで食べて美味しかった店のリスボン店である。

朝に食べたナタに砂糖とシナモンをかけ忘れていた悔しさから、今回はちゃんと忘れずにシナモンをかけようと思ったら、失敗してしまった。

ヴァスコ・ダ・ガマの悲劇と名付けたい。

大航海時代にヴァスコ・ダ・ガマがスリランカのセイロンから持って帰ったかもしれないシナモンが、いつまでものどに貼り付いて大変な目にあった。夕方以降はずっとむせていた。

さて最後に向かうは、サンロケ教会。

サンロケ教会(Igreja de São Roque)


私が一時ハマっていた、天正遣欧少年使節団に深く関わる場所である。


ロマンあふれる天正遣欧少年使節団について知るには、一番手っ取り早いのはAmazon Primeで見られるドラマ「MAGI」を見ること。(今はもう見られなくなってた!残念!)

吉川晃司は織田信長役。
緒方直人の息子も出てます。


時間をかけて深く追いかけるなら歴史ノンフィクションの本「クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国」を読むのがオススメ。

ちゃんと理解したい人にはそのあたりをおススメするとして、ある程度ザックリでいいのよという人のための、世界史と日本史の成績が非常に悪かった私による、例のごとくざっくりニュアンス説明は以下の通り。

天正遣欧少年使節団
1582年にキリシタン大名から、「ローマにちょっと行ってローマ教皇に挨拶してこい」ってことで選ばれて、「広い世界を見てこい」と信長に言われた13~14歳の少年4人は、船に乗り込み荒波を越えて、2年かけてローマに辿り着く。イタリアのローマ以外にもマカオやインド、スペイン、ポルトガルに寄港したが、リスボンではサンロケ教会を宿舎として滞在していた。その4人の少年の名は、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノで、ヨーロッパに行って日本に帰ってきた初めての日本人とされていて、世界を色々見てきた13歳の少年たちは、8年後の1590年に、20歳を超えて大人になって日本帰国。その時、日本は既に信長も死んでて、秀吉によるバテレン追放令でキリスト教徒は歓迎されない時代になっており迫害される羽目に。4人は時代の悲しい渦に飲み込まれていき、それぞれの厳しい運命をたどるという…。まるで映画のような本当の歴史。

天正遣欧少年使節団についてのざっくりの割にちょいと長くなった説明

これを大河ドラマでやればいいのに、とずっと思ってる。歴史スペクタクルストーリーになると思う。(ぜひ若作りさせた松坂桃李、柳楽優弥、岡田将生あたりでやってください。ほぼ「ゆとり」やん説。)

サンロケ教会に来てみたらあまりに地味な外観に逆にびっくり。地味やなあと思いながら中に入ると、いきなりのフランシスコ・ザビエル!

あまりに外観が地味すぎて写真を撮っていない。
こういう襟の服もザビエルって呼んだよね。
ザビエルポーズをしてないザビエル。

教科書で見て、腕を前でクロスするポーズをして、「ザビエル!」って言うよく分からん遊びを何度したことか。バカな子供だった。確か、インドのゴアの教会にあるザビエルの棺の前でも、ザビエルポーズをした記憶。そんなくだらないことを思い出させてくれるザビエル像にご挨拶。
そして、さらに中に進むと、今度はあまりにも美しい金の祭壇にびっくり。
令和の私が驚くんだから、16世紀の少年たちもさぞ驚いたことだろうと思う。ここに1か月間宿舎として生活してたんだなあと、思いを馳せてみる。今のような異国の情報など全くない時代に、言葉が違う見た目も違う国に来て、少年4人はどういう刺激を受けたのだろう。キリスト教の信仰心はもちろん篤かったのだろうけど、きっとそれだけじゃなかっただろう。知的探求心、好奇心。13歳なら今の中学生1,2年生だから、親元と日本を離れて命懸けでやたらと揺れる船に乗り込む覚悟は半端じゃない。500年も前の旅人たちには頭が上がらない。ヴァスコ・ダ・ガマやマゼランや、天正遣欧少年使節団の少年たち。そういういろんな探検家のおかげで地球の規模が分かり、形が分かり、今私が旅できているとも言える。
全くすごいことだと思う。

過去を知り歴史を知っていくと、今の時代や今の自分にすら繋がるものを感じられることがある。MAGIやクアトロラガッツィを見て、マカオ、インド、スペインなどを訪れ、今ここに来られたことに少し感動している私だった。


続く…

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のりまき
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