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GOKAKON!

・1・

「生まれてきちゃってゴ・メ・ン!」前を歩く小さな女の子が大声で歌う歌詞が耳に入って来て、オレはギョッとする。三歳くらいだろうか。少し前を歩くお父さんと五歳くらいのお姉ちゃん、隣を歩くお母さんという幸せの構図そのものがオレのすぐ目の前を歩いている。
「ちゅかあいくてゴ・メ・ン! 生まれてきちゃってゴ・メ・ン!」オレのすぐ前を歩いているその女の子は、どうやらこの二フレーズをずっと繰り返し歌っているようだ。急いでその家族を追い越す必要もないし、唐突に聞こえて来た小さな女の子が歌うポップなメロディにのせた懺悔が気になって、オレはスマートフォンを片手にその子の歌に耳を傾けて、幸せ家族の後ろをゆっくりと歩いている。

【生まれてきちゃってごめん 歌詞】と検索窓に入れてみると、なるほど、女児向けアニメの主題歌かなにかで、自己肯定と自身を鼓舞するような歌詞が並んでいる。少なくとも【恥の多い生涯を送って来ました】みたいな太宰的な生き様ベースの上にある『生まれてきちゃってゴメン』ではないのだな。我が子が『生まれてきてゴメン』と歌っているのを微笑みを浮かべて聞いている母親の顔も不思議だったが、その子が好きで見ているそのアニメ自体は明るくてポップなものなんだろう。『生まれてきちゃってゴ・メ・ン』という歌詞にネガティブな要素を感じさせない位に。

 いや、『生まれてきてスミマセンでした』という最悪の自己否定を、小さな女の子の歌う歌詞から思い浮かべてしまうオレの方がおかしいのだな。
『こんな歳にもなって、結婚ひとつ出来ない不出来な息子でごめんなさい。生まれてきてスミマセン』だなんて両親への思いが心によぎる。我が子からのそんな謝罪を喜ぶ親などいる訳がないので、そんな事を実際に口にすることはこれから先もないのだろうけど。

 オレは歩調を少し落とした。スマホの画面には目的地周辺の地図が表示されている。前を行くその家族との距離が少し開き、オレはなんとなくその家族を見送って、そして、右手にあるお寺の門を見上げた。開かれた門の内側の脇には小さな立て看板がある。【五感で婚活!GOKAKON!】と、そこには書かれており、その下には【男性用入口】とある。スマホのナビ機能を使わずに来たのは、注意事項として男性は決して女性用入口から入ってはならず、女性は男性用入口から入ってはならないと書かれていたからだ。オレはその看板の男性用という文字を何度も確認して、門をくぐる。

・2・

「ハイっ!それではみなさんお揃いのようですので、始めさせて頂きます。五感で婚活、ゴカコン、スタートです!」茶に染めたゆるいパーマ髪のいかにもチャラそうな男が前で高らかに宣言した。参加者からはまばらな拍手が生まれる。オレは少し大きめに手を叩く。
「司会はワタクシ、高宮トオルと」
「鈴木ユウコが務めさせて頂きますー」司会の男女が自己紹介をする。女性司会者の鈴木ユウコさんは襖のヘリからひょこっと顔を出して我々に手を振った。
「えっと、まず初めに注意事項をお伝えしますね」高宮トオルが話し始める。「えーっと、まずは、みなさんが通されたこの部屋の、このちょっと変な使い方……、っていうか、ま、この五感で婚活ゴカコンの肝になる部分なんですが。司会の我々が立っているこの縁側部分、今日はここから我々が皆さんをナビゲートいたします。そして、縁側というのはまあまあ狭いものですから、この襖で区切られた男性部屋と女性部屋の一番縁側に近い襖一枚を取っ払っています。我々司会の人間からどちらの部屋も良く見えるように、ですね。でも、ゴカコンの肝であります、先入観無しの男女の出会いという部分を大事にするために、その一枚開いた襖から向こう側を覗いたり、もしくは襖をしれーっと開けて向こう側を覗いたりは決してしないでください。そして、声を出す事も序盤では禁止します。視覚情報と聴覚情報を制限する事で見えてくる個性というのがあると思いますし、そして、その制限が解放された時の印象の面白さを楽しんで頂こう、巷によくある外見や年収なんかのプロフィールから入る出会いとは違う男女のキッカケをみなさんにご提供できたらいいなと私どもは思っております。とりあえず、覗き見と声出しは禁止です」高宮は覗き見のジェスチャーをしてすぐに腕でバッテンを作り、そして、人差し指を口に当ててウィンクした。

 高宮が言う通り、おかしな空間だ。襖を隔てた向こうの部屋には女性参加者がいるハズで、確かに向こう側には人の気配がある。でも、こちらの部屋にいるのは男性参加者ばかりだ。男性参加者はオレを含めて合計七名。その参加者はみんな一様に真っ白なTシャツを着ている。受付で参加費三千円を支払った際に渡されて、会場に入ったらすぐに着替えて下さいと言われたTシャツだ。真っ白なTシャツを着た男がずらり、座布団の上に胡坐を組んで座ってる。おかしな空間は不自然な統一性をもって、おかしな様相を一層増している。

 婚活という結婚に向けたスタートラインは時代と共に変化しているのだろうが、お見合いの延長線上にこのゴカコンという婚活はあるのだろうか。或いは、マッチングアプリの延長線上にあるのだろうか。

・3・

 受付で手渡されたのはA4サイズのホワイトボードとそれ専用マーカー。あとは、このゴカコン参加に際しての注意事項が書かれた紙と、後のイベントで使う様な紙と、何も書かれていない真っ白な紙と安物のバインダー、これらもやはりA4サイズだ。そして、ボールペンと、今着ているTシャツとネームプレート。ネームプレートにはファーストネームか、呼ばれたいニックネームをカタカナで書いてくださいとの事だったので、オレは素直に【ヒロシ】と書いた。

「それでは、これから皆さんに私からいくつかの質問をして参ります。それに対する答えをお手元のホワイトボードに書いて私に見せてください。私はそれを読み上げますし、また、その答えを鈴木さんがこちらのホワイトボードに書き上げます。皆さんは鈴木さんが書いた答えをお手元の紙に記入していって下さい。襖の向こう側にいる異性の印象をメモする事で、自分と相性の良さそうな方を探っていく感じですね。難しい質問は致しません。なるべく直感で答えてくださいね」そう言った高宮の後ろには二台のホワイトボード。会議室にあるような一畳ほどのホワイトボードが男性サイドと女性サイドそれぞれに立っている。ホワイトボードの下部の足の間からは綺麗に手入れされた庭が見えている。初夏の午後二時の庭は生き生きと緑を湛えている。気の早い蝉がどこかで鳴いている。

「先ずはそうですね。男女共に同じ質問をして参りましょう。最近見たものでも随分昔に見たものでも構いません。皆さんが今までに見た映画の中で最も良かった、仲の良い友人や家族や恋人に奨めたくなるような作品を一つだけ書いて下さい」高宮はにこやかにそう言った。
 映画、良かった映画……、恋人に奨めたくなるような映画、かあ。なんだろう?ブラッド・ピットとエドワード・ノートンの怪演が光ってたあの古い映画、ファイト・クラブがオレは好きだが、アレは女性にはウケないと聞く。恋人に奨める事はない、か。ならば、あれかな、バグダッド・カフェ。あの映画の空気感と主題歌はとてもいい。オレは『バクダッド・カフェ』とホワイトボードに書いてそれを高宮の方に向けて掲げる。

「ハイハイ。そうそう。そうやってホワイトボードに、今回は映画のタイトルを書いて私に向けてください。男性の答えはこちらの女性側の大きなホワイトボードに、女性の答えは男性側のホワイトボードに鈴木さんが書き込んでいきますから、自分の答えがこちらのホワイトボードに書きこまれたのが見えたらお手元のホワイトボードは下ろしてもらって大丈夫です。そうですね、私は鈴木さんが書き込むのを手伝う為に読み上げましょうか。えっと、まずは男性サイド。クニオさんは『ロードオブザリング』、シュンさんは『天空の城ラピュタ』、ヒロシさんは『バグダッド・カフェ』ですね」高宮の読み上げる声と、鈴木さんが動かすマーカーのキュキュっという音だけが室内で生まれてる。男女共に参加者の声は聞こえない。

 女性サイドのホワイトボードには参加男性の名前と、その人が奨めたい映画のタイトルが書き込まれたようだ。オレの座っている位置からはその半分くらいしか見えないが、男性参加者七人の名前の下に映画のタイトルが書かれているようだ。そして、男性サイドのホワイトボードにも鈴木さんはマーカーを走らせ始める。
「アリサさんは『ボヘミアンラプソディー』、マリさんは『千と千尋の神隠し』……」高宮の読み上げる声に合わせて、鈴木さんはホワイトボードに女性の名前と映画のタイトルを書き込んでいく。それを見ながら、男性参加者は手元の白い紙にそのままを書き込んでいく。もちろん、オレも。
「ミーナさんは『天使にラブソングを』、ユノさんは『バグダッド・カフェ』ですね」高宮の読み上げる言葉にオレはハッと顔を上げる。本名も顔も何をしている人かも分からないユノと名乗る女性はオレと趣味を同じくしているかも知れない、という期待が急に膨らむ。
「おっと、ユノさんとヒロシさんが同じバグダッド・カフェを挙げてますね。いい映画ですもんねー、あれ。でも、まぁ、これは最初の質問ですから、これだけを頼りに『運命の出会いだ!』なんて思わないでくださいね。先入観はなるべく持たずに、様々な個性を見合って、相性のいい相手を見つけようというのが、このゴカコンのコンセプトですので、焦らないでくださいねー」高宮はオレの胸中を見透かしたかのように言う。なるほど。そうかも知れない。好きな名作映画がたまたま一致するくらいの事は珍しいことじゃない。

・4・

「さて、続きましてはお酒に関する質問です。そうですねぇ、暑くなってきました今日この頃。本日の夕方過ぎに飲みたくなるお酒を答えてください。もちろん、体質的にお酒を受け付けない方もいらっしゃるでしょうし、そういう方はコーラとかコーヒーと書いて下さっても大丈夫です。また、お酒自体が苦手であるかどうか、お酒の場そのものを好むとか好まないとかも書いてもらえたらいいかと思います。飲みニケーションで仲良くなるとかならないとかは前時代的なものでありますが、お酒の嗜み方の相性がまるで合わないというのも中々に辛いものでしょうから、これは結構大事なんですよね。嘘偽りなく書いてくださいねー」高宮が二つ目の質問を投げかけて来た。確かにそうだ。他の相性はバッチリだけど、唯一酒好きと下戸という関係性だけが好相性とは言えないという男女が夫婦になるのはいいだろう。でも、あれもこれも相性が悪いのに酒に関する事そのものがケンカの種になるような男女は結婚するべきじゃない。酒の相性ってそれなりに大事なのかも知れない。オレは『ギネス』と三文字だけ書いて、ホワイトボードを高宮に向ける。

「それでは、今度は女性陣の回答から書き込んでいきましょうか。鈴木さん、私がまた読み上げていきますから、ホワイトボードへの記入をまた、よろしくお願いします」高宮はそう言って、少し女性部屋の方へ移動し、女性陣の名と答えを読み上げ始める。鈴木さんは男性部屋の前のホワイトボードの前に立ち、高宮が読み上げていく答えをそこに書きこんでいく。縦書きに書かれた名前の下の映画のタイトルだけを消して、書き込んでいく。

 アリサ スパークリングワイン
 マリ 柑橘系チューハイ
 ミーナ ビール
 ユノ ヒューガルデン
 サキ 炭酸水(お酒飲めません。お酒の場はキライじゃないです)
 ヒナ 生ビール
 マルコ アイスティ(お酒苦手です)

 男性部屋の前のホワイトボードには隣にいる七名の女性の酒の好みが書き込まれる。男性陣はそれを手元の紙に書き写す。書き写しながらオレは『酒好きのオレはマルコとは上手く行かないだろうな』なんて考える。そして、『ヒューガルデンも美味いよな』と、ユノという女性への好意を募らせる。顔すら知らない相手、映画と酒の好みの相性だけは良さそうな、ユノという女性への好意。おかしな話だ。

「えーっと、ここで、ワタクシゴトをちょっとお話させて頂きますね」高宮は、鈴木さんが女性部屋の前のホワイトボードに七人分のデータを書き終えたタイミングで話し始めた。「ワタクシ、高宮トオルは本業がバーテンダーでして。この【五感で婚活ゴカコン】は趣味でありライフワークにしていきたいと思っておりましてですね。また、このお寺、天性寺てんしょうじさんとのご縁もありまして、こうやって不定期ながら開催させてもらっているんですね。趣味ですから、今回男女共に頂いています三千円かける十四の四万二千円のうち、二万円はこのお寺に寄進していますし、一万円は鈴木さんの日当です。そして、およそ四千円が備品代等の経費で、残り八千円で、この会が終わった後のささやかな懇親会の飲み物と食べ物を用意しています」高宮は滔々と話す。なるほど、趣味か。規模の小ささと会費の安さはそれが故なのだな。「で、ですね。最終的にベストマッチングと私と鈴木さんが判断したお二人には、この場では最後まで顔を合わさずにいてもらいます。それはどういうことかと申しますと、男女の入り口を分けて、けっして互いの見た目が分からないままにスタートしましたこのゴカコンで、相性的なベストマッチとなったお二人には然るべき場所で出会って欲しいと思っているからなんです。ですから、サイコーの相性だと私たちが判断したお二人には、こちらが提示いたします待ち合わせ場所に、会が終わった後に向かって頂きます。少しだけ、この会場を出る時間をズラさせて頂きましてね」ほぉ、一風変わった婚活だとは聞いていたが、面白い企画だな。めちゃくちゃ相性がいいと思えた相手でも、この場では顔すら拝めないのか。

「で、先ほど申し上げました懇親会」高宮は話し続ける。「この懇親会は、言わば、ベストマッチングな相手に出会えなかった方同士の慰労会的なものでして。この婚活、ゴカコンはベストマッチングを保障するものではありませんが、ベストマッチングではないとはいえ、ここに集結したのも何かの縁でございます。ベストマッチングな男女にはこの会が終わり次第、この場を離れて頂きますが、そうならなかった方々は、そこで初めて対面する異性と、或いは、同席していた同性の方々と交流して頂きまして、後の合コン等のキッカケをそこで得て頂ければ良いかと思っています。ま、先ほど申し上げました収支を思いますと、無理やりにでも全員の方をベストマッチングとしてしまえば、その飲み物と食べ物が私のものになりますから、そうしたいのはやまやまなんですが、今までの経験上、ベストマッチングの数は多くて三組、少ない時はゼロという事もあります。……、というこのイベントの懐事情をお話ししましたので、よかったら私の店の方にも来てください」そう言って、高宮は爽やかに笑った。

 高宮の趣味であるというこの婚活は、高宮の店の宣伝も兼ねているのだな。それはいい。誰も損をしない、そして、誰もが何かしらの得をするというこのシステムは良く考えられている。参加者の男女十四人も、高宮も、鈴木さんも、このお寺も、何らかで得をするように考えられている。とてもいいな。

・5・

 参加者が全員無言のままに、高宮とホワイトボード越しに質疑応答する時間はおよそ四十分ほど続いた。映画、酒、趣味、行ってみたい旅先等々、一問一答の七対七の時間は、参加者それぞれに、顔も声も知らない七人の恋人候補、配偶者候補の答えを書き写しては、それぞれの印象をそこに書き足す忙しい時間となった。オレは数年前に卒業した大学の講義でも、これほど真剣に目と耳を傾け、ペンを走らせた事はない。

 男部屋と女部屋が襖で区切られたこの空間はクーラーの稼働はないが、ホワイトボードの向こうの庭先に通じるガラス戸が開け放たれていて、後ろ側の部屋の入口の引き戸も少し開いているせいで風が通り、暑いという事はない。ただ、初夏の陽気と妙な緊張感は少しだけオレの身体を汗ばませる。着替えさせられた真新しいTシャツは多少の汗を吸い、オレの身体に馴染んできたように思う。

「さて、それでは、無言で書き込む時間は終わりにしますね。五感で婚活と謳っているのに、今のところ、五感はすべて封じたままにやってまいりましたが、いよいよ、五感を通じて相性を探ってまいりましょう。男性と女性を隔てているこの襖。この襖の向こう側に七人の異性がいる訳ですが、真ん中の襖の鴨居かもいから、襖の引手の高さほどに男性部屋女性部屋共に布が垂れ下がっていますね。その部分の襖を少しだけ開けても向こう側は見えないようになっています。そこで、男性はそこから手を差し出し、女性はその手を握ります。五感の内の触覚ですね。男性はご自身のニックネームを口にしながら、僅かに開いた襖の隙間に手を差し入れてください。女性はその手を軽く握ってください。襖越しの握手ですね。男性はくれぐれも強く力を込めないようにしてくださいね。女性が握ってきた力と合わせるくらいの力でやさしく握り返してください」高宮の説明を聞いて女部屋との境の襖に目をやると、なるほど、紺色の暖簾のれんのような布が欄間らんまから垂れ下がっている。

「皆さんには現在、畳の上、座布団の上に座ってこちらのお庭の方に向いてもらっています。ですが、そのまま座って頂いたままだと、襖を少し開けたその隙間から向こう側が見える事もあるでしょう。ですので、握手の番が回ってきて立ってもらうその時までは、互いの部屋を隔てるこの襖を背にして座って頂きますようお願いします。握手してもらう順番の方には、それぞれ、女性側は鈴木さんが、男性側は私が肩に触れて合図しますので、合図を受けた方は襖を背にしたまま立ち上がって、立ち上がったあとに振り向いて、布のかかったトコロへ足を運んでください」高宮の言葉にオレも、他の男性参加者も応じる。とりあえずは女部屋との間仕切りである襖に背を向け、床の間にかかった掛け軸を眺めながら、自分の順番を待つ。

「しゅ、シュンです」
「んんっ、ミーナです」
 後ろから一組の男女の声がする。意識的に閉じていた喉のせいか、聞こえてくる二人の声はどこかぎこちない。果たしてオレはいつもどおりの普通の声を出せるだろうか。ゴクリと唾を飲み込む。
「はい、顔も知らない異性との握手はヘンな感じでしょうけども」後ろから高宮の声が響いてくる。「ここで、声の印象も互いに少し得て頂く為に、私から他愛もない質問を出しますね。コレはライブ感を大事にしたいので、みなさんそれぞれに違った質問をします。ですので、他の皆さんは私が今から言う質問に対して『自分ならどう答えるか』と考えなくてもいいですよ。それでは、シュンさん、ミーナさん。一匹のワンコを飼う事になった。そのワンコに付ける名前は?」
「ぺ、ぺス!」と答えたのはシュンという男の声だ。
「わ、わ、わ、わんざぶろう!」と言ったのは、ミーナという女か。『ミーナ わんざぶろうというセンスはGood』と、オレはバインダーに挟んでいたさっきの紙の片隅に書いた。

・6・

「ちょっと巻きでいきますねー」立っては座り、座っては立ちを繰り替えす参加者に向かって高宮はそう言った。そりゃそうだ。七人対七人の組み合わせは四十九通り、女性一人がずっと立ちっぱなしで男性七人が順繰り回るというやり方であれば、効率はいいのだろうが、それだと、一人一人の声と手の印象を吟味するには至りにくいのだろう。高宮と鈴木さんは襖越しに声を張って握手の済んだ組み合わせとまだの組み合わせを確認しながら、割とランダムに参加者の肩に手を置いては相手と引き合わせている。

 オレは今のところ、三人の女性と握手してきた。そのすぐ後に書いたそれぞれの感想を見直してみる。

 アリサ 手-しっとり やわらかい ・質問「バンジージャンプを飛ぶまでにかかる時間は?」「二時間」と答えた声は高めのカワイイ系 (オレは『二秒』と答えた)

 サキ 手-なんか力強かった ガシっとしたカッコイイ系か? ・質問「乗りたかった電車が目の前で発車してしまった。その時の気持ちは?」「ちょ、マジふざけんな」と答えた声は少し低めのおねーさん系 (オレは『ま、いっか』と答えた)

 ヒナ 手―めっちゃちっちゃい ちょっと華奢すぎるかも ・質問「キャンプ場にて。しけっているのか薪や炭に火が付かない。さあ、どうする?」「近くでやってる人に種火を分けてもらう」と答えた声は少し幼く聞こえた (オレはよく乾燥した柴を探して拾ってくると答えた)

 掌の触覚と聴覚の全てを襖の向こうに傾けて真剣に臨むというのは、馬鹿馬鹿しくも不思議と全員が愛らしく思えてしまう。美人だブスだと他人を断じてきた友人たちの全てが愚かに過ぎると思えるほどに刺激的な体験だ。
「ヒロシは何がいいって、顔がいいんだよね。そのキレイな顔があるから、大抵の事は許せちゃう」と、異口同音に言ってきた歴代の彼女の顔が浮かんでは消えていく。「アタシのカラダが目当てだったのね」と怒る女の気持ちがオレにはよく分かる。オレの顔が目当てで付き合いたがった女が沢山いたから。彼女たちとは相性もクソもなかった。彼女たちのグロテスクな内面を知るにつれ、オレの女性不信は募っていった。噂に聞いていたこの五感で婚活というイベントにオレが強く惹かれたのは、この顔に寄ってきたわけではない女と出会えると思ったからだ。

 肩に手が置かれた。オレを見下ろす高宮の顔は少し疲れている。『大変ですね』と、声には出さないがオレは眉と目尻でねぎらいの表情を出そうと頑張ってみる。そして、すぐさま立ち上がり、襖の隙間へ手を差し入れに向かう。

・7・

「ヒロシです」そう言いながら、手だけを女部屋に差し入れる。
「マルコです」暖簾の向こうから聞こえて来た声は、今までで一番心地いい声かも知れない。今までで一番とは、この婚活イベントだけじゃなく、オレの人生において、だ。コロコロと弾むように耳に入ってくる声は、美しいとかカワイイとかじゃなくて、ひたすらに心地いい。
 その発声といっしょにオレの手を包み込んでくれた手はやわらかく温かい。アレ?声と握手だけで惚れる事なんてあるのか?

「質問です。一つだけ超能力を得られるとしたら、何がいいですか?」横に立っている高宮がオレとマルコに聞いてくる。
「えーっと、時間を止める能力? または超絶なスピードで動ける能力かな」とオレは答える。何も考えずにヒーロー願望を口にする。
「じ、時間を巻き戻せたらいいかも。それがほんの数時間とか数分とかでもいいかな。後悔なく生きられたら嬉しいです」襖の向こうからマルコはそう言ってきた。やっぱり心地いい声だ。オレの手を包むマルコの手からも、心地よさが伝わってくる。
「ありがとうございましたー。それではまた、お席にお戻りください。あ、マルコさんはそのままそこにいてくださいねー」高宮の案内でオレは元の座布団に座り、マルコへの感想を書き始める。

 マルコ 手―やわらかくて優しい 心地いい ・質問「一つだけ超能力を得られるならな何?」「時間を巻き戻せる能力」と答えた声はとてもとても心地いい声 大好き (オレは『時を止める能力、または超絶スピード』と答えた)

 そう書いた後で、オレは最初のホワイトボードの質疑応答への回答集を見直そうとこれまでに書いたA4用紙をパラパラとめくる。【マルコ アイスティ(お酒苦手です)】と書かれた酒に関する答えを見つけて、少しだけ凹む。マルコさん、お酒苦手なのか。

 おそらくは七分の四から五ほど終わったであろう襖越しのスキンシップ一言面談は、背中越しに聞こえてくる。高宮の声はやっぱり疲れてきているし、女部屋からは女同士のひそひそ声の談笑が聞こえてくる。もう、声出しは解禁されているのだから、そういう事もあっていいのだろう。男部屋の方ではそういった声は聞こえない。スマホをいじっている男もいれば、これまでに書いたメモとにらめっこをしている男もいる。でも、隣の男と会話を楽しもうという男はどうやらいないようだ。

 そんな事を思っていたら、「このイベント、楽しいですね」と隣の男が声をひそめながらも話しかけてきた。中肉中背の男だ。上半身はオレと同じく白のTシャツだが、ズボンはスーツのスラックスに見える。そうか。この初夏の休日にわざわざスーツを着てきたのだな。服選びは無難を行くタイプなのだろう。
「えぇ。不思議な事に、顔も分からない女性がなんだか愛おしくなっていきますね」オレはその男に返す。
「そう!そうなんですよ!僕は断然、マリさんと相性が良さそうなんですよ!映画はジブリ繋がりだし、酒は柑橘系繋がりだしで!」そう言う男のネームプレートを見てみると【シュン】と書いてある。男の方の情報は書きとめていなかったが、この男が【ラピュタ】と答えていた男に違いない。なるほど、オレがバグダッド・カフェと答えてユノさんとの縁を思ってしまったのと同様の現象がこの男にも起こった訳か。たまたま嗜好が被っただけで運命を信じてしまうのは滑稽な事なのかも知れない。オレは反省して、そして「嗜好が似通ったからと言って相性が良いとは限らないらしいですよ。焦りは禁物だと高宮さんは言ってましたよ」自分と、このシュンという男に釘を刺す。
「そうですかねー。僕はこの運命を信じたいけどなー」朗らかに笑顔を向けてくるこのシュンという男は善人なんだろう。でも、ジブリ映画が好きだという人間は男女問わずごまんといる。それを思わずに運命を信じたがるというのは、少し迂闊なんじゃなかろうか。

・8・

「えーっと、少し休ませてくださいねー」疲れた顔をした高宮が縁側にベタっと尻を付けて座っている。傍らにはペットボトルの茶。その横には鈴木さんが座布団の上に凛とした姿勢で座っている。「お手洗い行かなくても大丈夫ですか?一応、男女がそこで顔を合わさないように、トイレ休憩タイムを男女で分けるつもりでいるのですが」高宮はすこしバテた調子で言う。オレは周りを見渡すが、少なくとも男性陣にはトイレに行きたいという者はいないらしい。
「そうですかー。もう初夏ですもんねー。そんなにしょっちゅうトイレに行く必要もありませんよね。冬じゃあるまいし」高宮はオフタイムの表情を浮かべながらそう言った。
「バテバテじゃないですか、高宮さん。だから言ったじゃないですか。四十九個の質問は事前に考えておくべきだって」鈴木さんが呆れたように言う。マジか、あの質問は全部アドリブだっていうのか。そりゃ疲れる。四十九本の発想力ダッシュと参加者を気遣うコミュニケーション能力を発揮し続けたなら、そりゃあフラフラになってしまう。よくもまあ、あれだけの事をしたもんだ。
「あー。この【五感で婚活】に大事なのはライブ感だと思っていましてね。用意しておいた質問を言うだけじゃライブ感は育たないんですよ、鈴木さん」
「そーゆーものですか?」
「嘘ですけどねー。単に事前に用意してくるのがめんどくさかっただけです」
「ですよねー」
 高宮と鈴木さんの関係性はよく分からないが、何気ない雑談の中にも息が合っているのが見て取れる。

「あー、そうそう。参加者のみなさん、反対側の部屋にいる七人の異性に対する印象を、受付でお渡しした【提出用印象記入用紙】にそろそろ書き込んでくださいねー。七列の表の一番左側には異性のニックネームを、その横の小さなマスの中にはその人に対する印象を二重丸、丸、三角の三段階で書き込んでください。二重丸をつけていいのは一人だけ、ふつうの丸を付けていいのは二人まで、です。全員に三角をつけるのは構いませんが、二人以上に二重丸を付けたり三人以上にふつうの丸を付けたりするのは禁止です。そして、さらにその横の大きめの空欄にはその人へのエールやメッセージを書き込んでください。また、一番右の小さなマスは空欄のまま空けて置いてくださいねー。
 だらっと身体を弛緩させたまま、高宮は説明する。それに応えて、鈴木さんがホワイトボードにその用紙の記入例を書き込んでいく。

 いいコンビだ。夫婦にも恋人同士にも見えないが、息の合い方に相方感あいかたかんがあって微笑ましい。見ていて楽しい。

・9・

「それじゃ、そろそろ再開しますか。鈴木さん、コットンの回収をお願い」そう言うと高宮は立ち上がり、「それでは男性参加者の皆さん、今からお一人お一人に、ナンバリングされたジップロックを一枚ずつお配りします。その中に、今着ているTシャツを脱いで入れて下さい」と言いながら近づいて来た。
「はぁ?」「なにそれ?」男性参加者は口々に言っている。察しが悪いヤツらだ。視覚を封じて、握手で触覚、質問の答えで聴覚とくれば、次は嗅覚に訴えるイベントだろう。このTシャツに少しばかりついた体臭で印象を測ろうという事だろう。いや、彼らもそれを察して言っているのか。自分で自分の体臭は自覚出来ないが、その自覚できないものを見ず知らずの異性に嗅がれるのだ。いや、マジか。

 でも、面白そうではある。そして、乗りかかった舟だ。オレは速やかにTシャツを脱いで簡単にたたみ、シップロックの中に入れて封をした。オレに渡されたジップロックは【6】とナンバリングされている。
「それではお一人ずつ回収していきます。その袋が誰のものであるかは本人と私だけが把握できるように、細心の注意を払って回収していきます。ですから、不用意に声を出さないようにお願いしますね。その袋を私に手渡す時に、ご自身のニックネームが書かれたネームプレートを私に見せて下さい。それで、各ナンバーが誰のものであるのかを私とご本人だけが知る状況に致します」
 全てのTシャツを回収し終えた高宮はまた縁側に立ち、その七つのジップロックを鈴木さんに渡した。そして、鈴木さんからは少し小さめのジップロックの束を渡されている。

「えーっと、五感で婚活というテーマですから、もう、みなさん察しがついていらっしゃると思いますが、それぞれの肌に密着していた、男性陣の白いTシャツ、女性陣の小さなコットンを、それぞれに嗅いで頂きます。女性陣にもTシャツを着て頂いても良かったんですが、女性の服装にはワンピースというものもありますからね。ですから、女性の皆さんには、ブラジャーと胸の間にコットンを仕込んでもらって、この会に臨んで頂きました」そう言った高宮の言葉に「キャー」という反応が向こう側の部屋から起こる。「ま、嗅覚でフェロモンを嗅ぎ分けるという趣旨ですので、どうか、ご理解のほどよろしくお願いします」高宮は至って真面目な顔と口調でそう言った。

「えーっと、世に言う変態的な行為と言うのは、その対象がどういった人物なのか、もしくは、その対象がどういったカテゴリに属しているのかを知った上での妄執ゆえだったりしますから、この、顔も素性も分からないままに、フェロモンを嗅ぎ分けて相性を探るという実験的行為に変態的な側面は無いと私は断言します」さっきまでのだらけた態度はどこへやら、キリっとした表情で高宮は言う。そして途端に相好を崩し、「ま、そうは言っても、あまりに変態的な行為は注意させていただきますし、その度が過ぎるようであればご退場願いますけどね」ニヘラッとした感じで高宮はそう言った。

・10・

「さぁ、フェロモンテストと書かれた用紙への記入は終わりましたね?」高宮が日差しの落ち着いた庭を背に立ちそう言った。

 男性陣のジップロックは1から7のナンバリングがされていたが、女性陣のジップロックはAからGまでのアルファベットが振ってあった。オレはそれぞれのジップロックの封を開けては鼻を近づけ、中のコットンのにおいを嗅いだ。もちろん、オレだけじゃない。車座に座った参加者の男性の中央に置かれたジップロックを手にしては中を嗅ぎ、また封をして、元の位置に戻し、別のものを嗅ぐという行為を参加男性全員が繰り返した。

 A 無臭 何も感じない △
 B 少し酸いにおい 少し不快か △
 C 祖父母の家のにおい 懐かしいが可も不可もない △
 D とても魅力的に感じる 甘いにおいとでも言おうか ◎
 E ありえない 正直言ってくさい △
 F ちょっと好きかも いいにおい 〇
 G 無臭 いや、微かにいいにおいのような気もする 〇
 オレは自分で書いたそれぞれの印象を見直して、そして、最後にもう一度、Dのジップロックに手を伸ばし、その中のにおいを確認した。
 他の参加者も同様の行動をしていたが、Dのジップロックの中のコットンのにおいを執拗に嗅いだのはオレだけのようだった。それぞれに自分にとってのいいにおいのコットンがあったようで、何度も同じジップロックを手にしたのはオレだけではなかったが。

「あー、男性のみなさん、女性のみなさん、そろそろいいですかね? 書き込んだ印象が変わる可能性がまだあるぞという方は手を上げて下さい」ちょっとだけ呆れたような声で高宮が言う。なるほど、女性側の部屋でも同じような光景が繰り広げられているのかも知れない。でも、挙手する男性参加者はいない。そして、誰からという事もなく、皆がパラパラと元の位置に座布団を戻して座り直す。

「はい。それでは、いよいよ、その香りの……、いえ、そのフェロモンの発信者を発表していきます。それでは鈴木さん、このメモの通りにそちらのボードに書いて下さい。僕はこちらのボードに女性陣のコットンの内訳を書いていきますので」高宮がそう言って、ホワイトボードにAからGのアルファベットを書き始めると、鈴木さんも女性部屋の前のホワイトボードに1から7の数字を書き始めた。そして、その横に参加者のニックネームか書き足されていく。

「わぁ」「えー」「きゃあ」という声が逐一女性部屋の方から聞こえてくる。「んふー」「ほぉ」「なーるほど」鼻息と感嘆と納得の声が上がるのは男性部屋だ。なるほどってなんだよ。
 A ミーナ
 B マリ
 C アリサ
 D マルコ
 E サキ
 F ヒナ
 G ユノ
 ホワイトボードに書き上げられたコットンの主の名を、さっき書いたフェロモンテストの紙の横に書き足していく。

 A 無臭 何も感じない △ ミーナ
 B 少し酸いにおい 少し不快か △ マリ
 C 祖父母の家のにおい 懐かしいが可も不可もない △ アリサ
 D とても魅力的に感じる 甘いにおいとでも言おうか ◎ マルコ
 E ありえない 正直言ってくさい △ サキ
 F ちょっと好きかも いいにおい 〇 ヒナ
 G 無臭 いや、微かにいいにおいのような気もする 〇 ユノ

 そうか。なるほどー。

・11・

「さて、今回ベストマッチングとなった二組の男女にはそれぞれ、これからとある待ち合わせ場所に向かってもらって、その後はちょっとしたデートをして頂きます。デートと言っても、それほど大層な事をして頂く必要はありません。二人並んで河川敷をぶらぶら歩いてもらってもいいですし、スターバックスコーヒーで三十分ほどお喋りをしていただくとかでも結構です。ただし!一つご忠告いたしますのは、今回のマッチングはちょっとした奇跡的な出会いですからね!決して性急に相手に何かを求めたりしない事。これを守って下さい。急ぎ過ぎたり焦り過ぎたりして、相手に何かをして欲しいとか、自分を丸ごと受け入れて欲しいなんて要求を前面に出したりしちゃあ、なりません。今回の二組の相性はめちゃくちゃいいんです。良すぎると言っていいくらいに。ですから、今回の出会いを大切に育まずにぞんざいに扱ってしまったら、それはもう、世界の終わりくらいに後悔する日がきっと来ます。どうか、どうか、大切に、ゆっくりと、二人の時間を育んでいってください」高宮はそう言って、オレともう一人の男を会場から送り出した。

「デートの待ち合わせってのは、男性が先について待っているのが、何と言いましょう、様式美として美しいですから」高宮はそんな事を言って、オレ達を会場から出るように促し、「およそ、十分後にお相手の女性を送り出しますから。待ち合わせ場所はそれぞれ、ここから徒歩で十分とかからない所です。ゆっくり歩いて行って、まだ見ぬベストマッチングな女性をそこでお待ちください」と言って笑顔でウィンクをしてくれた。

 オレは午後二時頃にくぐった門へ向かう。入って来た時にあった小さな立て看板はもうない。オレは少しだけ歩調を弛め、少し後ろを歩いていたもう一人の男に声をかける。
「えっと、なんというか、おめでとう」
「あ、あぁ。ありがとうございます。そして、あなたも、おめでとう……、でいいのかな?」
 オレ達は二人してはにかんだような笑顔を向けあった。
「ま、結婚に向けてのスタートラインに立っただけだからね。おめでとう、って言うのも変か」オレは言う。
「いえ、大いなる一歩ですし、おめでとう、でいいんでしょうね」男は言う。
「待ち合わせはどこでした?」
「私が指定された場所は市役所前ですね」
「へぇ。私はBALビル地下の丸善の、話題の新刊コーナー前でした」
「細かい指定ですね」
「えぇ。まったく」オレは苦笑いを浮かべる。
「でも、楽しい会でしたね」
「えぇ。とても楽しかった」
 オレ達は揃って門をくぐり、寺町通りに立って向かい合う。
「それじゃ、ここからは方向が違いますね。ご武運を!」オレがそう言うと、「えぇ、あなたもハッピーを手にしてください。ご武運を!」と彼は言い、オレ達は背を向けて歩き出した。

 時間は午後四時過ぎ。初夏の暑さはもう大人しくし始めている。オレは来た時とは逆方向に足を進める。『生まれてきちゃってゴ・メ・ン!』と歌っていたあの子供はもう帰路についたのだろうか。いや、はしゃぎ疲れて今頃はお父さんにおんぶされて寝ているのかも知れない。

 オレは指定された書店の一角を目指し、ゆっくりと歩く。

・12・

「ヒロシさん?ですか」そう声をかけられて、オレはハッと背筋を伸ばす。平積みされていた伊坂幸太郎の新刊を手に取ったはいいが、つい読みふけってしまっていたようだ。
「あ、えぇ。ハイ。ヒロシです。ごめんなさい。好きな作家の新刊が出ていたもので、つい……」そう答えながら、オレは声の主の顔をまじまじと見る。小さくて可愛い女性だ。どことなく柴犬を思わせる愛くるしさがある。彼女の胸には首から下げられたネームプレート、そこにはマルコと書いてある。「あぁ、これ、もう外したらいいですよね。つけたままだと何か変ですし」そう言って、手にしていた本を元の場所に置き、オレは自分の首からぶら下がっているヒロシと書かれたネームプレートを外す。

「私は高山博たかやまひろしと申します。どうぞ、よろしくお願いします」
「私は丸山加奈子まるやまかなこ。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
 書店の一角でネームプレートを外してオレ達は深々と礼をしあう。横を通り過ぎる人が怪訝な表情をこちらに向けてくる。
「あ、待ち合わせ場所はここを指定されましたが、どうでしょう、少し外を歩きませんか?」オレはそう提案する。
「そうですね。少し歩きましょう」
 オレ達は河原町通りに出て、なんとはなしに鴨川の方へ向かう。高宮の『河川敷を歩くもよし』というアドバイスが頭に残っていたのだろうか。高宮の気遣いは割と細やかだったように思う。しかし、なんで、待ち合わせ場所は書店の新刊コーナーだったんだろう?

「変な婚活イベントでしたね」歩きながらオレは丸山さんに話しかける。
「そうですねー。でも、面白かったです」そう答える丸山さんの声は『時間を巻き戻せたらいいかも』と襖越しに聞こえたあの声に違いない。でも、妙だ。あの時と違って、少し元気がない。
「どうか、しました? 少し元気がないようですが」オレは思ったままを口にする。「もしかしたら、外見が分からないワクワクから、まったく好みじゃない外見の私に会ってガッカリした……とか?」丸山さんの外見は正直言って可愛いし、そもそもオレは外見を重視したりなんてしない。でも、オレの外見が丸山さんのお眼鏡に適うかどうかは別問題だ。
「ううん。高山さんはイケメンでビックリしちゃったくらいです。あんな変なイベントに参加なんてしなくても、引く手あまただろうに、なんて思うくらいに」丸山さんは伏し目がちで話す。『イケメンだなんてそんな』と茶化す返答は違う。丸山さんがこんな顔をしてるのはなぜなんだろう。オレは何を言ったらいいのか分からないまま歩く。

「さっき、三歳くらいの女の子が、お父さんにおんぶされてたんです。疲れてたのかな。その子はお父さんの背中で寝てたみたいなんですけど」丸山さんはそう話しだした。「私は、さっきの待ち合わせ場所に向かって歩いてて、その親子を追い抜く感じで通り過ぎたんですよ。そしたら、その子、寝ながら『生まれてきちゃってごめん』なんて寝言言ってたんですよ。それを聞いてしまったもので、なんか、ずーんと暗くなっちゃって……」丸山さんはそこで小さく一呼吸入れて、そして、「三歳くらいの女の子が寝言でそんな事言うなんて悲し過ぎじゃないですか」と言って、一筋の涙をこぼした。

 オレは立ち止まる。それに合わせて丸山さんも立ち止まる。人通りを邪魔しないように、オレは丸山さんを道の脇に寄せながら、彼女の顔を見る。この偶然に感動すればいいのか、それとも笑えばいいのか。オレは自分の表情を制御できない。おそらくは複雑怪奇な表情を浮かべているだろうオレの顔を見上げて、丸山さんは怪訝な顔をしている。
「それは、たぶん、今日のお昼に私が出会った親子に違いないと思うんです。メガネをかけたオカッパ頭の三歳くらいの女の子じゃありませんでした?赤いスカートを穿いた」オレがそう言うと、丸山さんはブンブンと首を大きく縦に振った。「今日の会場に入る直前に見たその子は、生まれてきちゃってゴ・メ・ン!って歌詞を大声で歌ってたんですよ。とても明るくてポップなメロディで」丸山さんの目が大きく見開かれる。「それで、私もその歌詞に引っ掛かりを覚えましてね、スマホで検索かけてみたんですよ。そうしたら、どうやらそれは、小さな女の子向けのアニメの主題歌か何かだったようで……」オレがそう言うと、丸山さんも感動すればいいのか笑えばいいのかといった複雑な表情筋の動きを見せて、「あはっ、アハハ!良かったー。そうだったんだー」と、さっきとは違う涙の筋をその頬に生んだ。

「あ、レモン!そう言えば、その女の子、レモンモチーフのカバンを持ってませんでした?」オレは続く偶然に必然を覚えて思い付きを口にする。
「あぁ、レモンかどうかはしっかり見てませんけど、その子のお父さんはその子をおんぶしながら、手には黄色の子供用のカバンを持ってました」
「やっぱり!」
「それがどうかしました?」
「さっきの待ち合わせ場所、丸善と言えば、梶井基次郎の」
「あぁ、檸檬!」丸山さんはくしゃっと満面の笑顔をオレに向けてくる。
「今日の色んな奇跡を語るには、何かレモンにまつわる店がいい。レモンのナニカを食べにか、飲みに行きませ……、あぁ、丸山さんはお酒苦手でしたね。何か食べに行きましょうよ」オレはそんな提案をする。
「あ、ホントは私、お酒、好きなんです。ただ、今までに一緒に飲もうと言ってきた男性に酒癖の悪い人が多かったものですからつい、あんな風な回答をしてしまったんです」
 片目をつむり、すこしだけ舌を出して、そう言う丸山さんの顔はとんでもなくキュートだ。

 信じがたい程の愛おしさが心の奥底から湧き上がってくる。なんだこの感じ。
 相性のベストマッチングって、奇跡なんだな。

 今日は有り得ない程の奇跡がオレに降り注いでいるに違いない。

 この縁を大切に育んでいこう。

 オレと丸山さんは、一瞬のアイコンタクトの後に、同時に歩き始めた。

 ―終―

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