観光にサイエンスを 観光にフィロソフィーを
文化と経済を仲介する観光人材を育てる
2021年9月15日にオンラインイベント「文化と経済を仲介する観光人材を育てる」が開催されました。
FBグループ「今だからこそできるインバウンド観光対策」 の定期イベント(運営はDMO anywhere)として、高井がはじめて企画実施した回。
H.I.S.で八面六臂の活躍をされたあと大学教員の世界に入った鮫島卓(さめたく)氏をゲストにお迎えしてお話を伺いました。鮫島さんのお話は動画で、またブログ「SAMETAKU LAB」で是非どうぞ。
後半では「観光人材」について私が普段考えていることを少しお話したので、このnoteでは高井のパートに言葉を足しつつ、編集を加えて再録しました。
※以下の画像は高井が作成し、今回のイベントで使用したもの(一部修正)と過去の学会発表で使用したものです。
大学で観光を学ぶ
「観光」の学部や学科を持つ日本の大学は2021年9月時点で42校あります(大学ポートレートセンターの「大学ポートレート」を参照してカウントしました。4年制の大学の学部のみ、現在募集停止のものを除く)。
学部・学科以外に「コース」として観光を教えるところを含めるともっと多くの大学で観光を学ぶことができます。私が勤務する神奈川大学国際日本学部でも観光を学ぶことができますが、学部学科名に「観光」が入っていないので、上記にはカウントされていません。ほかにもそういう大学があるので、日本の大学で観光を学べる場はかなり広がっています。
観光学ときくと、旅行会社やホテル、航空会社に就職するための勉強かな?と思う人も多いと思います。それももちろんあります。でもそれだけじゃないんです。
観光という現象を理解するために、いろいろな学問領域から研究がされています。観光は様々な要素が絡み合う総合的な営みだから、学問としても多様なアプローチがされるのは当然なんですね。
世界でみると、大学で観光を学ぶ場の主流は「観光ホスピタリティ産業経営学/観光マネジメント」からアプローチするものです。経営学の一分野ととらえてもよいと思います。
私がはじめて観光を学んだイギリスのサリー大学(University of Surrey)も、ホスピタリティ観光経営学部(School of Hospitality & Tourism Management)です。
経営以外の学部で観光の要素を含んだ学びができるところもたくさんあります。私が博士課程で選んだのはイギリスのレディング大学の地理学部(University of Reading, Department of Geography)です(注:現在は名称が変わって、Department of Geography and Environmental Science)。
文化と経済の両輪で観光を考える
日本の大学で「観光」を冠した学部学科で学ぶ場合、学問領域としては社会科学(経営学もここ)、人文科学、総合・学際・国際系のいずれかから選ぶことになります。
どのようなアプローチで学ぶとしても、押さえておきたいことは「文化と経済の両輪で観光を考える」という視点ではないでしょうか。
私がイギリスのサリー大学の大学院で観光を学びはじめたのは1995年。ホスピタリティ観光「経営」学部だったのですが、当時のカリキュラムで最初に学んだことは持続可能な観光-Sustainable Tourism-でした。
最近ようやく日本でも持続可能性や持続可能な観光、サステナブル、サステナビリティという言葉が市民権を得つつありますが、世界(というとやや大風呂敷ですが、少なくともイギリス)の観光研究・観光教育では四半世紀前から中心に据えられていた概念です。
先進国の企業主導による発展途上国への観光投資や観光開発によって現地の自然や文化がうけるネガティブな影響や、利益が先進国に逆流する漏出(leakage)の問題が顕在化しており、そうした反省に立ち、観光を経済と文化(や自然)の両面から持続可能なものにしなければならない、という思想と実践への挑戦が(現実的にはなかなか難しい面があることは世界各地の観光地を見ればわかりますが)すでに立ち上がっていたんですね。
経済活動としての、或いは産業、事業としての観光は、文化(や自然など)を元手にしています。或いは集客装置として文化(や自然)を活用しています。
でも同時に、そもそも国や地域がなぜ観光に取り組むのかといえば、経済効果を求めると同時に、文化を守り継承するためという面もあるはずなんですね。
文化を活用して経済活動が活発になるのはよいけれど、利益が地元に残らない構造になってしまったり、地元の人が大切にしてきたものがあまりにも商業化されすぎてしまって「あれ?こんなはずでは…」となってしまうことが、観光振興では起こりがちです。
今回のイベントのゲストである鮫島卓さんもまた、この問題意識を共有している方です。ハノイのトレインストリートの変遷を例にわかりやすく説明してくださいました。
鮫島さんの語った言葉で心に残ったのは:
「経済がなければ生きていけない、文化がなければ生きている意味がない」
鮫島さんのお考えや体験、現在の教育実践はぜひイベント動画やブログで見てみてください。
異なる論理で動く文化と経済
経済の論理では、インプットとアウトプットの差を大きくしようとします。
或いは、インプットからアウトプットまでの時間を限りなくゼロに近づける者がもっとも稼ぐ、という論理です。
ところが文化はそうじゃない。インプットからアウトプットまでの時間をたっぷりとって、そのあいだに「考える」「じっくり生み出す」ことこそが大事なんだという論理です。
だから、この2つはなかなか折り合いがつかないわけです。
(この言い回しは東浩紀さんがゲンロンカフェのトークで繰り出した言葉で、正確には「文化」ではなく「学問」とか「知」とおっしゃっていたり、違う表現を使ってらしたはずですが、深夜の突発放送だったので、どの回の放送だったか、どんな表現だったか、記憶があいまい…でも大筋ではそういうことを言ってはりました)。
折り合いがつかない、ということは常に緊張関係にあるということです。
そして、観光を文化と経済の両輪で考え、実践するためは、対立し緊張関係にある別々の思考回路の両方を実装した人を育てないといけないと思うんです(実装する、という言い方が最近流行っているようですが、そのニュアンスがこの文脈にはしっくりきます)。
観光人材の2つの側面
じゃあ、文化と経済を仲介し架橋する人材を育てるにはどうすればいいのでしょうか?2つの方法論の両方が必要です。
1. 経済の論理で観光ビジネスのプレイヤーを育てる
ひとつめは、観光ホスピタリティ産業経営学や観光マネジメントの知見を武器に、観光産業のプレイヤー(働き手)やマネージャー(管理職)を育てることです。
既存のゲームのルールを知り、試合に勝つための知識、スキル、体力を持つ強いプレイヤー/マネージャーです。
ルールとゴールが決まっているゲームにおいて、手段として役立つ目的遂行的で手段的有用性の高い知を獲得する学びです。
2. 〈まだ見ぬ観光〉をつくる経営者を育てる
ふたつめは、プレイヤーやマネージャーの上に立つ経営者或いは起業家を育てることです。
経営者・起業家教育は普通は経済の論理としての経営学…と思いがちですが、それだけでは足りません。
ゲームのルールが変わってしまったとき、さらにはゴールが決まっていないとき、新たな戦い方を考えるひと、どんなゴールを設定するか?を考えられるひとが必要です。
そうした〈まだ見ぬ観光〉を創るひとを育てるためには、リベラル・アーツが必要です。
なぜでしょう?
まだ存在しないものを構想するためには、ひとは自由でなければならないからです。
『観光のレッスンーツーリズム・リテラシー入門』で著者の山口誠先生・須永和博先生・鈴木涼太郎先生は、リベラル・アーツ(liberal arts)とは「自由になるための技能」であり、リベラル・アーツとしての観光/観光教育が持つ可能性はまだまだ掘りつくされていない、という問題提起をされています。
自由になる、とはどういうことでしょう?
「いま、ここ」以外の世界を知る、「いま、ここ」だけが唯一の世界でもないしベストでもないことを知ることによって、私たちは自由になれるのではないでしょうか。
だから「いま、ここ」ではない時間について学び(歴史)、「いま、ここ」ではない場所について学び(地理)、或いは誰かの頭のなかに広がる世界について学び(文学)、また世界の成り立ちを数式で表す術を学び(数学)etc. というリベラル・アーツが私たちを自由にしてくれるのです。
旅することや、複合的学際的な観光教育・観光学には、リベラル・アーツの要素が含まれています。
観光にサイエンスを 観光にフィロソフィーを
東京女子大学の矢ケ崎紀子先生が「観光にサイエンスを」と常々おっしゃっていて、わたしもまったく同感です。矢ケ崎先生の講演録をぜひ読んでいただきたいと思います。
同時に、「観光にフィロソフィーを」も同じくらい大事だと思うのです。
国や地域にとって観光ビジネスや観光振興は手段でしかなく、目的はほかにあります。国や地域が経済的に自立し存続すること、大切な文化や自然が守られ継承されること、また新たな文化が創り出されていくこと、それによって私たちが豊かに生きていく、この国やこの町で生きることを愛おしく大切に思うことができること、それが目的です。
自分の国や町がどのようなものであってほしいと思うのか、何を大事にしたいと思うのか、そのために何を選び何を捨てるのか、深く考え対話することは、自分やコミュニティの存在について考え抜くことです。それは哲学そのものではないでしょうか。
文化と経済の言語を理解し、その緊張関係に常に身を置きながら、そうした思考と対話を先導する観光人材を支えるのは、サイエンスとフィロソフィーです。
地域や国の文化の観客たる〈観光客〉を育てる
「観光人材」以外に、重要な「ひと」が観光には必要です。「観光客」です。
観光客は、消費者であると同時に、文化を育てるサポーターになり得ます。
良い芝居や舞台が脚本家と役者、製作スタッフだけでつくられるのではなく、鑑賞し、批評し、サポートして育ててくれるサポーターとしての観客との共同作業によってつくられるように、です。
DMO anywhereでご一緒している萩本良秀さんがコロナ禍でも実施された「フジロック」は観客が育て守っている、という話をされていたのですが、文化のサポーターとしての観光客と通じるところがあるように思います。
(おまけ)東浩紀さんからの宿題を受け取る
〈文化のサポーターとしての観光客〉は、東浩紀さんの近著『ゲンロン戦記-知の観客をつくる-』から気づきを得たものです。
その根底には『ゲンロン0 観光客の哲学』があります。彼はその冒頭近くで、このように言います:
「資本主義と深く結びついた観光のダイナミズムそのものに対しては、観光学者たちでさえいいところを見つけられない」(p.30)
(※東さんのいう「観光学者」は主として人文社会学系の研究者を指しているように読めました。経済・経営系の観光学者の人たちからすると「えっ、何⁈」と思われるかもしれないので、一応)
東さんのこの一文を、一読者かつ観光学者の私は「宿題」として受け取ったんですね。
この宿題が、それ以来の私の仕事への原動力になっているといってもいいくらいです。そして、現時点での途中経過レポートが今回のイベントでもありました。コロナ禍で日々崖っぷちにしがみつきながら、視線は前を向いている頼もしい人びと-観光ビジネスの現場の人びと-にボールを投げる、私の誤配の実践でもありました。
宿題に取り組む…to be continued
無責任でふわふわした観光客は、その軽さゆえに普段行かないところに行き、出会うはずのない人に出会い、出会うはずのないものを見ます。
観光客の欲望から生まれる誤配がきっかけとなり、世界のつなぎかえ(注:本文の最後)が起こるかもしれません。
その「つなぎかえ」のなかには、観光客の何人かが(地域)文化の観客になるかもしれない可能性が含まれているのではないでしょうか。
制作側(観光地や地域の文化の担い手など)と観客(観光客)が、経済(消費)だけで繋がる関係から、文化を守り育てる場の当事者になる道が開かれるということです。
この道を拓くのは、〈経済-文化〉という正反対の論理が持つ緊張関係を内包する観光のダイナミズムそのものといってよいのではないだろうかと思うのです。
そして、この道を拓く現場の作業者は観光事業の経営者であり従事者、そして観光客自身-それが「文化と経済を仲介する観光人材」を育てることの意味です。
文化と経済。どちらかの〈村〉にとどまって、同じ言葉を話す者同士で話していれば心地よいかもしれないし、異なる言語を話す人とはなかなかうまく会話できないけれども、そこに分け入って媒介する仲介者としての観光人材を育てることができたら…世界のつなぎかえがひとつ始まるかもしれません。
注:「世界のつなぎかえ」とは、「いま、ここ」の環境から予測される明日(未来)とは異なる世界が出現する可能性を引き出す作用のことです(と私は理解しています)。詳しく知りたい方は『ゲンロン0 観光客の哲学』を読んでみてください)。
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