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マインドフルネスで苦しくなっていた私が、どうやって世界と調和していったか


マインドフルネスを始めてから、紆余曲折あり、
最近、新しい形で世界と調和し始めた私の
ここまでの心の軌跡をまとめてみようと思います。



図にするとこんな感じ、端から端まで2年ちょっと。
6つの期間に分けてみました。
目次の①~⑥に対応しています。



①幸せ、ここにあり

マインドフルネスが幸せを運んできた

そもそも、私がマインドフルネスを本格的に実践しよう、学ぼうと思ったのは、
不安が強い息子にマインドフルネスを教えたいという理由からでした。
これからの時代、心理士としての仕事の役にも立ちそうな気がするし。
だから、別に自分自身の在り方に悩みや困り感があったわけではありませんでした。

ごく普通に日常を送っていたし、
どちらかというと大変だった長男の子育てが一旦落ち着いて、
ようやく自分の新しい学びに目が向けられるなーという時期でした。

そう、なんにも困ってなかった。
スタートは『普通』『ニュートラルな状態』でした。


実際、マインドフルネスを本格的に学び、実践し始めると、
私は、あっという間にマインドフルネスのとりこになってしまいました。
毎日オンラインでマインドフルネスのクラスを受講。
マインドフルネスって、なんかめっちゃいい!

多動系の私の人生では、今までに体験したことのない感覚でした。
頭の中のぐるぐるが止まって、穏やかに時が過ぎていく。

さらに講師養成講座での体系的な学びも経て、
日常の小さな幸せに、気づくことができるようになりました。

幸せって気づくことさえできれば、今ここに、いっぱい転がってるんだ!
わーー!マインドフルネスってすごい!!
これは全人類やった方がいい!!!

というような状態がやってきました(笑)。
ビギナーズハイ、みたいな感じ。

いくらでも瞑想できちゃう。
暇さえあれば瞑想していたい。

でも、私が見ていたのは現実ではなく、
『幸せだけを見ようとする幻想の世界』でした。


②苦しい時期がやってきた

パンドラの箱、開けちゃった


そうこうしているうちに、
あれ?
私って、こんな人間だったんだ?

え?自分の中にこんな感情があったとは。

自分の中にある、無意識的に見ないようにしてきていた部分がだんだんと見えてきました。

今までしてこなかった自己観察が一気に進んでしまったのです。

自分に対してめちゃくちゃ厳しい自分。
至らない自分、理想の人間ではない自分を
常に責めている自分の内なる声にも気づきました。

そこから、世界が180度、変わってしまった。
まさにパンドラの箱を開けてしまったのです。


何にも困ってなかったのにー(悲)。
別に自己肯定感が低い人間だとも思ってなかったのにー(悲)。

外側で何か事件が起きたわけでもないのに、
この自分と長らく仲良く付き合ってきたと思ってたのに、
急に自分の内側に変化が起きて、自分のことが大嫌いになってしまった。


マインドフルネスで大切なことは、
「気づき」と「受容(ジャッジしない)」だと言われますが、
私はその両者の育み方のバランスが悪かったようです。

私は、どちらかといえば元々、集中力はあるタイプで、
自分には厳しいタイプだった。

今まで外側にばかり向いていた注意が、急に内側に向いてしまったので、
自己への気づきは一気に深まっていった一方で、
自己を受容する気持ちを育むスピードが追い付かなかった。

気づき  >>> 受容


自分のことをジャッジしまくり。
あれはダメ、これもダメ。
こんな自分はイヤ!!!絶対許せない!!!


しばらくは、常に胸がザワザワしていて、その感覚に吞み込まれ、
なんかマイルドに生き辛い・・・
そんな毎日でした。

マインドフルネス瞑想をしていると、
心がスッと楽になる時もあれば、逆に辛くなる時もありました。
でも、日常生活として表に見えている私はあんまり変わらない。

外側の世界で何かがうまくいっていないとかは全くなかったのですが、
ただ、自分の中がザワザワしていました。

この辛い感じは1年以上続きました。


セルフコンパッションが手に入らない

『自分に対して優しさを向けること』=セルフコンパッション
これが、私に欠けていることは重々わかっていました。

自分の心のザワザワをなんとかしてくて、
自分のことを好きになりたくて、
セルフコンパッションについて独学で学んだりもしました。

でも、そう簡単には手に入りませんでした。

長年、無意識で自分に厳しく生きてきていたので、
私の心の癖は、手ごわかった。


自分に優しくすることが正解だとわかっているのに、
そうできない自分を相変わらず心のどこかで責めていました。

なんで、自分に優しくなれないんだろう・・・
こんな私、ダメだ・・・

セルフコンパッションを手に入れようと頑張るほど、
逆に苦しくなっていました。


ありのままの私って?

いろんな偶然に導かれ、私は現在の瞑想の師匠と出会うことになります。
そして、新しい自分との付き合い方が少しずつ見えてきます。

毎朝のスペースでのありがたいお話と瞑想。
MeetUpという、ありのままの自分でそこに存在する体験。


少しずつ、本来の私がどんなんだったか、思い出せるようになりました。
幼い頃にフタをして、隠してきた本来の自分です。


幼少期の記憶 ~隠れていた本当の私

私はとても繊細な子どもでした。
怒られるのが大嫌いで、ちょっとのことですごく不安になって、
怖くてすぐ泣いてしまう自分。

記憶はないのですが、日常生活であまりに心が揺さぶられすぎて、
きっと生き辛かっただろうと思います。

たしか幼稚園の年長さんぐらいの頃、
遠足か何かで遊園地に行き、宇宙船のような乗り物に乗りました。

狭い空間に閉じ込められ、映像を見て宇宙を旅行するアトラクションです。
たぶん、途中でトラブルが起きて、地球に帰れないかも?となるけど、
無事に帰れてよかった、というようなストーリーだったような気がします。

幼く繊細だった私には、それがとてもとても怖くて、
泣いてしまいました。

でも、乗り物を降りて見たら、誰も泣いていない。
その時にハッとして、絶対に泣いているのを見られてはいけないと、
強烈な恥の意識が芽生えたのを覚えています。
そこで、誰かに何かを言われたような記憶はないので、たぶん自分の中で急に気づいたのだと思います。
みんなとは違う自分の心の在り方に。

そこから、人前で泣いてはいけない、
心が弱い自分は隠さなければならない、
と思って生きてきたように思います。

私のイメージの中で、
傷つきやすい私は、高い塀に囲まれた塔の中でポツンと体育座りをしていて、外の世界が怖いと怯えています。

『天空の城ラピュタ』で、
シータをかくまおうとしたパズーがムスカに捕らえられて、
閉じ込められていた狭い独房みたいなところです。
壁をよじ登ると小さな窓から外の世界がちょっとだけ見えるけれど、
自分で外に出ることはできない。まさにあんな感じ。


そして、私のイメージの中では、
私の分身の兵隊達が塔の周りを取り囲み、傷つきやすい私を守るために日夜働いていました。
本当の私が怖がらないように、安心で平和な世界を作るために。
たぶんそれが、愛と勇気のヒーロー、アンパンマン。

でも、私はアンパンマンじゃなくて、蒸しパンマンだった。
だって、中身はあんこじゃなくて、ふわふわ繊細で傷つきやすい私だから。


③希望の扉

新しい自分の在り方を模索


そして、長らく辛かった私は、
師匠から瞑想のパーソナルレッスンを受けることにしました。

この状態から何とか抜け出したくて。
まさに、助けてーーーって感じでした。

この人なら助けてくれるかもしれない
私をこの苦しみから救ってくれるかもしれない
という期待があったと思います。

私は、もっと楽に生きれるようになるのかな?

セルフコンパッションの長老・・・

師匠によるパーソナルレッスンの開始と同時期に、
セルフコンパッションの講座も受けることができました。

何かがつながったように、私の中で誕生したのが、
私の話を「そうか、そうか」と微笑みながら、ただ聴いてくれる長老です。
ジャッジしない、アドバイスもしない、ただ聴いてくれるだけ。
心の味方、私の中のセルフコンパッション担当です。


でも、それは夜中にふと目が覚めた時に、深く瞑想している中で、
自分に意図的に優しさを向けようとする時にしか出てきてくれませんでした。

長老だから、日中は日向ぼっこして寝てたのかなぁ・・・(笑)?


集中瞑想で心の癖を断ち切る


さて、パーソナルレッスンで最初に取り組んだのは集中瞑想です。
師匠は私に、集中瞑想をやった方がいい、とおっしゃいました。

集中瞑想。

一点に集中して、それ以外のものを手放していく瞑想です。


私は、講師になるための養成講座で、
集中瞑想だけに没頭する危険性について学んでいました。

集中して無になることを目指すのは、マインドフルネスではない。
まず集中して、その集中力を使って『観察』するのがマインドフルネスの目的。

たしかに集中瞑想は、心がすっきりして気持ちがよいけれど、
そこに固執してしまうと、現実逃避になってしまう危険性がある。

『集中瞑想を突き詰めると危険』
きっと怖がりで真面目な私は、そこに過剰に反応したんだと思います。

そんなわけで、私は集中瞑想だけというのは、
何だか怖くてほとんどやっていませんでした。
観察瞑想の前に少しだけ、短時間だけに留めていました。

集中瞑想は、心の癖を手放す。
心の癖を断ち切るための瞑想です。


自分の心の物差しを手放せないまま、観察瞑想だけを突き詰めた結果が、
先に綴った私の心の苦しさの原因だったようです。

集中瞑想に取り組むべし、という師匠の教えに添って、
私は忠実に取り組みました。
集中瞑想は、ドンピシャで私にはまりました。
特に苦行系のマニアックなやつが(笑)。

そして、少しずつ心が軽くなってきたかも?という矢先、
大事件が起きました。


④全てが吹っ飛び、軽くなる

「今」しかなくなった


次男が、怪我をして救急車に乗る事件が起きました。

この体験により、一気にいろんなものが吹っ飛びました。

自分の悩んでいたこと、心の癖、
たぶん、全てのことがどうでもよくなる瞬間を体験しました。


瞑想の師匠にその話をしたら、

緊急事態により、今ここ大集合!
過去も未来もなくなって、「今」しかなくなったんだね、と。


そうなんです。
たった数日前に、師匠にLINEで長々と打ち明けていた苦しい心のうち。
救急車事件の後に、すっかり忘れてました。
それは、何を悩んでいたかとかいう内容のレベルではなく、
悩んでいたこと自体を忘れているという・・・。

昔から記憶力が弱い私も、まさかびっくりの出来事でした。

「今」しかなくなったのは、実際にはほんの数時間程度だと思うんだけど、
超集中瞑想みたいな感じになったのでしょうか?

これまでの集中瞑想の積み重ねと、
偶然起きた事件が最終的な引き金を引いた結果かもしれません。

一旦、心が軽くなったけど・・・

悩んでいたことを忘れた私は、
あの苦しかった1年間が嘘のように急に身軽になりました。

心が軽いってこういうことなのか
何にもとらわれていない心って、こういうことなんだ。

こうあるべき、こうすべき、みたいなものがなくなって、
新しい自分になったようでした。

ふわっふわ~

しばらくその状態は続きましたが、
ふと気づくと少しずつまたいろいろな心の重荷を背負い始めていました。

あれ?なんか重いかも・・・?

本当に感覚的に、心におもりがついていて、
動きが鈍くなっているような。

でも、それに気づけたのは、一旦心が軽い状態を経験したからこそ。
そして、この心が重い原因は、
自分の心の癖が勝手に作り上げていることも体感的にわかりました。

これは、心のお掃除だ。
集中瞑想を多めに取り組みました。

少しまた軽くなりました。


なるほどー!瞑想ってこう使うんだ!
日々、持ちすぎた分だけ手放していけたらいいんだろうけど、
今の私にはまだそれはできなくて、重いなぁと気づいたら意識的に手放す。この作業の繰り返しのようです。

最近もまた重くなり始めている感覚があるので、
心の断捨離、やるとしますかね。

少しずつ自分が出せるように

私は話すのがめちゃくちゃ苦手です。
普段、そもそも頭の中で言語で考えていないのと、
話すことの苦手意識から『聴く専門』の人として生きてきたため、
人に自分の気持ちを伝えることは全くできていませんでした。

別にもっと自分の話を聞いて欲しいとも思ってなかったし、
話して聴いてもらったところで、
うまく話せなかったと後で自分が落ち込むだけだから。

でも、この頃から、少しずつ
人に自分のことを話すことができるようになってきていました。

以前と比べて、誰かと一緒にいても、
何かを話さなきゃと緊張しすぎることなく、
少し楽な気持ちで過ごせるようにもなってきました。

人から頼まれたことを断ったり、人にお願いしたり、
頼ったりすることも少しずつできるようになってきました。


パーソナルレッスンやMeetUpでの体験を通して、
ありのままの自分で過ごす経験ができた始めていたからかもしれません。

ここで白状しますが、私、MeetUpに再度申し込み、体験しました。
ありのままで聴き合う場。
不思議な体験がいっぱいありました。

いつもは塔の中で怯えている本当の私は、
安心できる人と一緒にいる時にだけ、
外の世界に出てくることができました。
そんな時、とても楽で、穏やかで、温かい感覚になりました。

自分のことが好きだなって思えました。
あんなに手に入れたかったセルフコンパッションは、
外側からではなく、自分の内側から自然とやってきました。

ありのままの自分で過ごすだけでよかったんです。

本当の自分を出せるようになってきている感覚は、
現在進行形で少しずつ進んでいます。

⑤世界との調和

起きていることをそのまま観る

師匠とのパーソナルレッスンは、観察瞑想へと進んでいきました。

観察瞑想にもいろいろな種類がありますが、
私が一番好きなのはオープンモニタリング瞑想。

注意の対象を定めず、今ここに在る全てのことに注意を向ける瞑想です。

自分の体の中の感覚、思考や感情、
聞こえてくる音、見えている光など。

どこか一点に注目せず、注意を全てに分割していき、
今起きていることをありのままに観ていきます。

この瞑想のどこが好きかというと、
私という形がなくなって、世界に溶け込んでいく感覚がするからです。

自分がこの世界の一部なんだという感覚になります
世界とつながる感覚。調和です。


でも、このオープンモニタリング、結構難しくて、
やろうとすればするほど、逆に遠のいてしまうのです。

他の瞑想と違って、心のお仕事がないからです。

集中瞑想では、どこか一点に意識を集める事が心のお仕事になりますし、
ラベリング瞑想は、注意が向いた対象を短い言葉にしてラベルを貼ることがお仕事です。

でも、オープンモニタリングは、なにもしない。
ただ、全てのことに気づき続ける。
以上!!

大好きだけど、なかなかたどり着けないというか、
いつの間にか心がどこかへお散歩して「気づき」がなくなっていたりします。

日常生活でも、このオープンモニタリング的な感覚で生きることができたら、
とても楽なんだろうなと思いますが・・・
まだ、なかなか難しいです。

へんてこな世界と調和する


私の瞑想の師匠のモットーは、瞑想を日常生活に実装していく、です。

瞑想中には心が穏やかになるけれど、
日常に戻るとすぐにまた心が荒れ模様・・・

こんなことって、瞑想している人のあるあるではないかと思います。

瞑想と日常をつなぐもの。
私にとって、その役割を果たしてくれるそうなものが見つかりました。

『ソーハム瞑想』という、ちょっと不思議な名前の瞑想です。

ソーセージとハム・・・しか思い浮かばないけど?
と思ったそこのあなた。
この瞑想を舐めたらアカン! ←自戒を込めて

ソーハム瞑想とは、
世界を取り込み、自分を差し出す、循環の瞑想です。

やっている感覚としては、
オープンモニタリングと、ラベリング瞑想と、慈悲の瞑想を混ぜ合わせたような感覚です。

きちんと理解して解説できるほどの力は、今の私にはまだないので、
この程度の説明に留めておきます。


私にとって、ソーハム瞑想は、
オープンモニタリング単体よりも取り組みやすくて、
いつでもどこでも何をしていてもできるような感覚があります。

瞑想しよう!というような構えが必要ないと言うか。

ただ、今いる私の世界を自分の中にそのまま取り込み、
ありのままの自分と調和させていく。


例えば、11月の寒い夕方に、うちの3歳の次男が公園の砂場で遊び、
汚れたからと言って水道で手足と洋服を洗い始め、
そのまま再び砂場にダイブしていく・・・

というような状況を眺めながらでもできます(笑)!

ちなみに、彼が着ていたのはファーフリース。
わかります?
ファーフリース × 水 × 砂  が何を意味しているか・・・

私は、瞑想してたんだけど、
傍から見たら、呆然としている人のように見えたかもしれません。

呆然としたから瞑想しようと思ったのかもしれませんが。
でも、現実逃避ではなく、私とへんてこなこの世界は調和していました。


最近の私がよく思うのは、
日常って、この世界って、とってもへんてこだよなぁ、ってこと。
そして、私も、私の人生のもへんてこ。

理想の何かとか、
こうあって欲しい世界とか、
ぴったり、かっちりハマる、というものは何一つなくて、

凸凹したいろんな不調和なものたちが
そのまんま集まってできている。

人も物も出来事も、
ぜーんぶへんてこなままで、まぁ、いいか。
それが世界。

最近手にした私の中のこの感覚は、
私をとても生きやすくしてくれています。

師匠に瞑想を教わるということ

私は、マインドフルネスを始める前と今とでは、
心の在り方が随分違います。

へんてこな世界では、日々いろんなことが起き、
いろんな心の動きがあります。

時に勝手に自分の頭の中で作り上げた世界に
自分自身が呑み込まれてしまう時もありますが、
何かのタイミングで、あ、これ勝手な私の妄想だった、と我に返り、
起きていることをありのままに観てみよう、
と心をリセットすることができます。

人生には、大波も小波も、大荒れの日もあるけど、
それを少し離れたところで見守ってる自分がいる、
ということを知っています。



瞑想と出会い、続けていくうちに、
常に心が穏やかな状態になれたらいいな、
という思いはありつつも、
もしかして、感情の起伏がなくなったり、
人生に冷めてる感じになったりしてしまうのかな?
という怖さのようなものも、どこかで持っていました。

私、どんな人間になっちゃうんだろう・・・?と。


でも、自分の心の在り方が変化していくのを体験してみて、
なるほど。と思いました。

別に私は変わらないや。


今までと違うのは、
『ありのままの自分がここにいる』ということを
知っているかどうか。

見守る自分と見守られる自分が、
共に人生を歩んでいく。
そんな感覚です。


私にとって、師匠について瞑想を教わるというのは、
先人の知恵や、世界についての捉え方を学んだり、
実際に瞑想を体験する中で様々な気づきがあったりするのも
もちろん重要なのですが、

師匠がいろんな私をいつも見守ってくれている

ということがとても大事な気がしています。


たぶん、『私を見守る私』が、
私の中にちゃんと育ってゆくまで、
師匠がその役割を担ってくれているような感じがするのです。


⑥新しい世界へ?

本当の私が外に出たいと言っている

つい先日、師匠とのパーソナルレッスンでの瞑想中に
感情を大きく揺さぶる出来事がありました。

ソーハム瞑想をやっていた時のこと。

それまで、私の中でソーハム瞑想は、
世界を自分の中に取り込み、自分の中で調和させていく、
別の言葉に置き換えると、自分の中にスッと落とし込む『納得』のような感覚に近かったのですが、

その時は、世界を取り込み、代わりに自分を外の世界に差し出す『循環』という感覚を強く感じました。

そこで、ハッとして気づいたのは、

いつもは塔の中で怯えている本当の私が、
「私も外に出てもいいかな?」と思い始めているような感覚でした。

そして、「世界が怖い」というのは真実ではなくて、
私が勝手に作り上げた価値観でしかない、
ということにやっと気づけました。

外の世界は怖いところだから繊細な私を守ってあげなきゃ!と、
これまで兵隊さんが表向きにがんばってきたけど、
世界は怖いと思っていたのは、私でした。
そう、私が勝手に作り上げていただけの虚構の世界。


本当の世界って?


ここが私の現在地。

さて、ここから先、
『私』はどうなっていくのでしょうか?




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