「炎上」という「エンタメ」
【バカッター叩きはエンタメの一種】
「バカッター叩き」は言うなれば現代の「エンタメの一種」なんだね。叩かれる人は本来あるべき罰以上に過剰に叩かれ、叩く方はそれを見てさらに叩く。叩く方の大多数の人が飽きるまでそれは行われる。エンタメなので、緊急性はなく、必要性も本来は薄い。飽きれば終わる。その証拠に、他にも多数の同様のバカッターがいても、そちらはほぼ無視されている。
【人間社会の「宿痾」】
集団リンチ、あるいはそれに類する集団的な行為をエンタメにする文化は人間の社会の古くからある残酷な一面で、多くの地域のコミュニティで広い範囲の集団で行われているのは、良く知られている。その集団が原始社会であれ、古代社会であれ、資本主義社会であれ、社会主義社会であれ。しかしながら、基礎的な法秩序がある社会における「社会の公平性の原則」というものが正しいとしたら、それからは外れている。
【知識と経験がなければ避けられない】
大人は慎重にこのエンタメのターゲットに自分がなるような行動を避ける知恵がついている人が多いのだが、子供にはまだその知恵はない。だから、社会経験が乏しく先を見る力もあまり発達していない若年の人間がそのターゲットになる事が多くなる。
【ネット以前からある「炎上」】
おそらく、この「集団リンチ」と言っても良いようなこの動きは、その集団が外界の脅威から自らの集団を守って生きていくための結束などと深い関わりがある人間の集団の行動なんじゃないだろうか?おそらく、だが、平和であるがゆえに、深刻な地域集団の危機が長い間に無いとき、その集団が内側から壊れていく事を防ぐために、集団内に「ターゲットになる人」を作り、血祭りに上げることで、集団の結束を確認する、という意味があるんだろう、と私は思う。
バカッターとは、おそらく「現代の生け贄」だ。
その生贄の血祭りの儀式が「炎上」なのだろう。
その儀式の間、ネットは公共の広場に作られた処刑場になる。
【処刑人というビジネス】
そして、生け贄となる犠牲者を探して選別し、それを生け贄の断頭台に導く処刑人というのをビジネスにしているのが、一部のYoutuberなのだろう。誰もがこんな役割はしたくない。そういう意味でも誰にでもできるビジネスではないが、そういうことを生業にする人はいつの世でもごく少数だが、必要とされているものなのかもしれない。人の地域集団の維持には。
【「ネット炎上」を真正面から研究することができるか?】
であれば「ネット炎上」を、そういう視点から見ることが必要ではあっても、それがなかなか成り立たない理由もわかる。ネット炎上とはそういう社会現象であり、人間社会の、おそらくは誰も触れて欲しくない暗い深淵を、それは内包している現象でもあるからだ。人間社会の「宿痾」と言って良いのかもしれない。人が人の集団を維持するための、あまり表立って語られることの無い、腐臭漂う社会メカニズムで「それ」はあるのだろう、と、私は思う。
原始の社会、古代の社会、資本主義の社会、社会主義の社会。いつの時代にも、どんな集団にも、それは「あった」。それは事実だ。
社会学者がこれを正面から扱えるか?
ぼくは、いま、そこにも注目している。