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現代の芸術家に

【「芸術家」の集う街】
いま、私がいる鎌倉、逗子だけでなく、多くの日本の都市は、繁栄した日本の面影がある街だ。高齢者が多く、芸術家も、売れる人、売れない人、老いていく自分の身体を抱え、生活を賭けて真摯に作品に向かう人、芸術ではなく「手習い」のレベルの人、など、様々だ。

【変わった時代の残酷】
この位置にいると、芸術に関しては、この両極端を見る。しかもこれに高齢化が加わる。この傾向は今後さらに進む。生きていくだけで精一杯なのは誰もが同じで、しかも高齢化の中でそれがさらに分かりやすく見える。その中で作品に向かう姿勢の違いが芸術家個々に顕著に現れる。面白いが、一方でそれは一人の人間として見ていると「残酷」にも見える。澁澤龍彦がなぜこの地を選んだかが、よくわかる。彼の見ていた「芸」と「人」が見えてくる。

芸の道は長いが人生は短い。

良く言われる言葉だが、だからこそ芸の道を極めるその道の分岐点の路上で多くの芸術家が迷う。

【「芸術家」の分岐点】
「手習い」の道を進み、食っていくのは他に頼ると割り切るか、あくまで自分の食い扶持もこの道で行くか。どちらに行こうが、どちらも人間として悪いことではない。しかし、しっかりと応援もされるのはどちらかは、明らかだ。頼れば頼るほど、道を誤り、挫折への道に入っていく。

【芸術家の修羅と正念場への自覚】
この時代と場所は芸の道を得る人間にとっては「正念場」なのだ。命と生活を賭けて芸の道を迷わず行く人は、やはり神々しく輝いている。だから人が集まる。

【なんとなく、なんとかなる時代の終わり】
なんとなく、なんとかなる時代は終わった。世の中に富が溢れ、芸術家でもサラリーマンでも、フワフワと生きていても、なんとかなった時代は終わった。芸術にも、その波がやってきている。

【命を賭けた選択への自覚】
芸術家だからといって必ず芸の道で食えるようにしなければならないわけではないが、芸の道は以前の時代より厳しく、藝術家は2つの道の選択を、自らの命を賭けて行わなければならない時代に変わったことへの自覚は必要だろう。これは芸術だけではなく、あらゆる分野で起きている。

【作品と人は現代社会に見られる存在】
この時代の変化のただ中にいる自分の自覚。それが無いままに、芸術をライフワークにするのは危険だ。世間というのは、この2つの道のどちらを芸術家が選んでいるかを、ちゃんと見ているものだ。作品を見て、作品を作る芸術家の日々の生活を見ている。スーパーマーケットに日々の買い物に行く姿も見られているのだ。それが、人前に自分を晒し、人前に自分の作品を晒して生きる人に課された立ち位置だ。

【鎌倉にいる本物と偽物】
この私の立ち位置からは、この時代の変わり目の自覚なく、この岐路でフラフラとしている芸術家の姿も、既にどちらかを選んで歩き出している芸術家の姿も、どちらもが見える。そして比較する。それは一般の人の歩む人生ではないから、一般の人からのアドバイスは意味がない。同じ芸の道を極め、歴史を背負った芸術家からのみ、その人へのアドバイスが意味を成す。

【永遠の命を得る作品を】
どちらの道を選ぶにせよ、自らの心臓をしっかりとこの手に掴み、賭けた命の絞り出す作品のみが、永遠の命を得る。その「道」は尊く輝く。一方の道を選んだ人とその作品にしか、永遠の命は宿らない。芸術家にとって残酷な現実は、たった1つであろうと作品の永遠の命なく自らの生を終えることだ。しかしそれはあり得る。誤ってもう1つの道を自覚なく選べば、その残酷は否応なしにやってくる。

まるで、ダムの底に沈んだ村が水源の枯渇とともに再び太陽の陽を浴びるように、再び芸術の道が鮮明に見える時代がやってきたのだ。

多くの「芸術家」が自覚なきまま落伍していくだろう。この道を照らし、芸術家に道を示す。それが、この時代の芸術評論家に課された役目だ、とも言える。

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