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「学校に行かない」は「革命」ではない。

【ネット上の議論と実際の法律】
ネット上では現在、日本の法令を正式に見ることができる「e-GOV」システムがあり、そこで「学校教育法」はここで読むことができる。ネットでは様々な議論が交わされるが、特に法律に関係することは、しっかりと法律をしらべておいた方が良いことは言うまでもない。

【「義務」は誰に課されるか】
この学校教育法を読むと、まず第一条に「学校」の定義がある。そして、「義務教育」については第二章・第16条から書いてある。この法律によれば「義務教育」の「義務」は、日本国政府が子供を持つ親に課す義務であって、子供その人には義務は課されていない、ということがわかる。つまり「義務教育の学校に行かない子供」がいたとすると、その国家が課す義務に反すると罰せられるのは「親」ということになる。

【義務教育の目的】
義務教育は何のために行われるのか?というのは同法の21条に書かれていて、それをまとめると「日本国人として最低の常識と知識を身につけ、この日本という地域において、一生涯能力等に応じて豊かな生活を得るため」ということになる。これは「教育基本法」に書かれていることと同じだ。この目的を達成するために、「学校」という地域の器がある、ということになる。

【例外もあるが】
とは言うものの、学校に行けない子供などがいる場合は、義務を課された親の申請に応じて、学校に行かない、という選択もできることになっているが、それは「最後の手段」という感じになっているのは、法文を読むと感じることができるだろう。汎ゆる手段を講じて、学校での教育を受けさせる体制を整えることが、この法律には書かれているからだ。

【富国強兵 - 「教育」か「学校」か】
この教育関係の法律の変遷を見ると、第二次世界大戦前は日本人を「富国強兵」の兵士、あるいは軍を含めた政府を背後から支える産業を支える人員として、日本人を作ろうとしていたことがわかる。戦後はそこから「軍」が抜け落ちたので、子供の教育の主な目的は国をあげた産業の振興、ということになる。日本の国の政府の国民の教育方針の戦前と戦後の違いは「富国強兵」→「富国」になった、ということだ。つまり、学校教育法は「子供を学校に行かせる義務」について書いてあって、それは「(健康で文化的な生活が送れるようにするための)教育を受ける義務」とは分けて考える必要がある。「学校に行くこと」「教育を受けること」は今一緒くたに語られているのだが、法律を読んでみると「学校に毎日同じ時間に行くこと」が優先されているのではないか?と思える。つまり日本の学校教育は「学校」という地域の拠点をいかに守るかということで出来ているのではないか?と思われる節が私には見える。これは日本の学制が目指すものをわかりやすく示しているのではないか?と、私は思う。

【今や「ロボットのような人」がいらない時代に?】
戦前の「兵士」、そして戦後の「産業人員」は多くの同じことを考える人を必要とした。能力はそんなに高くなくても、まずは人の数を揃え、その「人」が、号令一下、同じように動く、ということが必要だった。しかし、デジタル革命が進行し、非常に安いコストで「兵士」も「産業人員」も、ITやロボットがやったほうが安価で正確で速い、という時代が見えてきた。これまでは「ロボットのような人」が必要だったのだが、これからは「ロボットがやるべきことはロボットがやったほうが良い」という時代になるだろう、と言われている。こんな時代には「ロボットのような人」は必要なくなるどころか、むしろ効率化やコストダウンを防げる要因にさえなりかねない。

眼の前で行われている現代の戦争の姿を見ても、それは言えるのではないか?であれば、教育も変えていく必要が、どうしてもあるのじゃないかと、私は思う。

【人がやるべき仕事とは】
逆を言えば、今までデジタル化が進むまでは労働コストの大部分を人がやったほうが安かった、ということなのだが、これからは変わってくる。

例えば、自動車の運転でも、人がやるよりITがやるほうが速くて安全で確実になるだろう。つまり、自動車の運転はこれから人がやるべき仕事ではなくなってくるはずだ。であれば、自動車運転のための教育も必要なくなってくる可能性がある。ITの運転手であれば、蒸しパンを食べてアルコール検知器に引っかかることもないだろう。「運転手」という職業はなくなっていく運命にあるのかもしれない。

例えば、倉庫の業務はどうだろう。人間は間違えるがITはおそらく間違えないで、速いスピードで、一番コストがかからない方法で倉庫の荷物を出し入れするだろう。

例えば、工場の工員さんの仕事は。。。例えば、兵士の仕事は。。。例えば、事務所の事務員さんの仕事は。。。例えば、経営者の仕事は。。。。政治家の仕事は。。。総理大臣の仕事は。。。。

あらゆるものが「機械」に置き換わっていくだろう。じわじわと。

【こんな時代の教育とは】
こんな時代の教育とは「ロボットに教育をさせると教育コストが大きくなって採算の合わないほど複雑なもの」になるだろうが、そういうものさえ、ITの計算速度やデータ容量が増えて「人でなければコスト高でできない」ものを減らしていくはずだ。であれば、人はなにをすれば良いのだろう?そういう時代の教育は「人とはこうあるべき」と、どのように教えるのだろうか?今のところ、そこに答えがないのは、おそらくぼくらが「産業社会」というものに朝から晩まで関わってきて、やっと維持してきた社会に生きているからだろう。私たちが「新しい人間に変わる」ことがなければ、私たちもやがて生きる場所をこの世に失うのかもしれない。

いま、人間の教育は「なにを人間に教えるか」を考え直さなければならないところまで来ているのかもしれない。

学校に行かないのは革命ではない。デジタルがすでに革命を行っているのだ。

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