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ドーナツの穴から見える僕たち

先日、ある記事を読んで面白かったので、紹介したいと思う。
下記の記事である。

この文を発見した時、非常に面白いなと感じた。確かに、ドーナツの穴は空白で存在していない。しかしながら、ドーナツの穴がなければドーナツはドーナツではないのである。つまりは物質的な空白がその物自体を特徴づけているのである。日々生きている中で、空白なものに目を向けることが少ないから尚更であった。他の例ではBLEACHの虚(ホロウ)の穴しか思いつかない。

しかしながら、なぜドーナツの穴がドーナツの存在を表しているのだろうか?という疑問がでてくる。みなさんいろんな考えがあるだろうが、僕の考えは「相対的に見ている」からである。他の菓子と比べて持っていないもの(ここでは空白なのだが)があるから、その名がつくのである。この世にある菓子がすべてドーナツであれば、ドーナツという認識はされないのかもしれない。このように僕たちは物を認識する過程において比べるということを排除することは非常に難しい。

もしかすると、ドーナツの穴みたいなことは我々人間にも言えるかもしれない。どういうことかというと、自身にないものを主張することで存在を表明しようとすることである。(ないものはもっぱら欠点と認識されることが多い。)お金持ちが羨ましいはお金がない自分の裏返しであり、イケメンに憧れるのは整っていない自分の顔に対する裏返しである。

この傾向は仕方ないことであると思う。なぜなら、日常の中で無意識の癖になっているからだ。先ほども申し上げたが、我々は言葉を使うことで物を判断している以上、その言葉の成り立ちである比べる過程から逃れることはできない。

しかしながら、巷では「人と比べるのは良くない!」とドーナツの穴を認識しない考え方が広がっている気がする。この傾向は根本的な解決になっているのだろうかと疑問に思う。僕は比べること自体を否定することは、最終的には穴を塞ぐような画一的な考え方を生み出すきっかけしか生まないと思うのである。

それよりもドーナツの穴自体を個性として認識し、受けていれる方がよっぽど大事なのではないだろうか。そういう意味では、自分を受けて入れてくれる環境は非常に重要であるとも思うのである。それは家族なのであり、隣にいる友人なのである。

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