怒りを超えて優しさをブレンドする
ここ最近、僕が代表を務める認定NPO法人D×Pの活動の一部である食糧支援や現金給付がツイッターでプチバズっている。
ツイッターやfacebookで投稿してもらった反応としては「こんな状態の子たちがいたとは」「現物の写真を見ると、胸にきます」という言葉をいただき、ツイッターでの投稿がきっかけでwithnewsで記事にしていただきヤフーニュースのトップにもなった。
「ヤフーニュースのトップになったのは人質事件以来じゃないか!!!!!」と友人に言われたのだが、たぶんそれに加えて記憶がある限りだと批判の手紙を大量にいただいたときに対話していった記録をブログにアップしていって炎上した2006年以来だったんじゃないか、と思っている(あのときは批判のコメントが6000件ぐらいきて、死にそうでした)。
そう、自己紹介は遅れたが、僕は今井紀明といって名前や顔を見られると「どこかでお名前聞いたことがあります」「どこかでお会いしたことないですか?」と様々な会合に出ると言われて「あ、きっとテレビかもしれません」とは言えずに「あ、僕もお会いしたことがあるかもしれません!!!!!!」とか言ってみたら全然接点がなくて困る経験を何度もしてきた人間だ(すいません。。。最近は正直に「テレビかもしれません」と言うようにしています)。
仕事で大切にしていることはnoteでも書いてきている。
コロナで社会の状況が一変してからD×Pが事業として寄付で運営しているユキサキチャットの登録者数が激増して不登校や高校中退、そして経済的に厳しい状況の10代の子どもたちから様々な声が届くようになった。
「所持金があと5000円ぐらいしかなくて、バイトもなくなってしまい、親もいないのでどうすればいいのか」
「親がご飯をつくってくれなくて困っています。学校にもいけていません」
2000名の登録者を越えたユキサキチャットでは日々、そういった声が届き、僕たちは食料を送り現金給付もしながら、就職のサポートや生活の相談、場合によってはPCの寄贈も行なって在宅ワークなどにもつなげてきている。
そんな活動をやってきて9期目になって、よくこんなことを言われる。
「今井さんってイラクにいって子どもたちの支援できるとか、なんでそこまで行動を起こせるんですか?」
「子どもたちになんでそこまでサポートできるんですか?」
「なんでNPOの活動を続けられるんですか?」
と。もうこれは繰り返し聞かれすぎていて、数千回ぐらいは聞かれている気がする、マジで。いろいろと今まで答えてきているのは「911の影響ですね」とか「イラク戦争があって」とか「ひきこもりと貧困生活を経験したので」とかいろいろと答えてきたが、自分でも正直わからないので、僕の生い立ちを少し書いてみながら解きほぐしてみようと思う。
0−6歳まで
母いわく、僕は生まれたとき「でかい赤ちゃんだった」とのことだった。体重3700グラムぐらいはあって今でも割と様々な会合の場で「態度がでかい」と言われるが、この頃からでかかったらしい。両親共働き、母は看護師で父は教員という家庭で二人ともかなり忙しかったので祖母に育てられながら保育園に預けられ、僕は育ったらしい。保育園のときに記憶に残っている唯一ぐらいのことはなぜか友達と喧嘩して何かを投げられて頭が切れてしまって病院に運ばれ、手術を行なったことだ。なので、僕の頭には一部禿げている箇所があり傷が残っている。
現在は地下鉄は通っているが、この当時は自然以外なにもなかった札幌のある地域で育った僕は山や川、畑に囲まれて生活をしていた。コオロギをとったり、蟻の巣に水をいれたりして見つめていた。このとき、死についての概念は知らない。が、家の目の前にある蟻の巣を見つけると、水をいれたくなってしまい、溺れていく蟻たちをみていた。また、ダンゴムシが好きでダンゴムシをよく集めて蟻たちのところに持っていて、巣の近くに置いていた。その後、そのダンゴムシたちがどうなったかは全く知らないが、虫と遊ぶことがすごく好きだった少年だったように思う。
7ー12歳まで
小学生になってからはゲーム三昧の少年だった。5歳離れた兄がファミコン、スーファミなど親にすがって買ってもらいゲームを見ていて面白いと思ったのが小学校1年生だった。特に三国志だ。
これがきっかけで僕はゲームという沼にはまってしまった。ありとあらゆるゲームにはまってしまい、平日だと毎日ではないが3〜4時間、土日も7〜8時間ぐらいはやるような生活になっていった。また、ゲームがきっかけで友達もたくさんできて、自分の家で遊ぶこともあればいろんな友達の家にいってゲームし続けていた。今考えてみると、このとき友達の家にいったときに「うちより狭いなー」とか「この家、大きすぎ」「建物古いな」みたいなことを思っていた。当時は意識していなかったが、家庭の所得もかなりバラバラでかなりしんどい家庭も多かったと思う。
僕はゲーマーであったと同時に塾にも通っていなかったので自由時間も多く、のびのび山や外でも遊ぶこともあった。サッカーなどもやったりして隣の家の窓ガラスを割ってしまったこともある(親と一緒に謝罪しに行きました)。小学校4年生ぐらいまでは小太りで全くモテない(人生で一番モテていたのは中学校3年生ぐらいではないだろうか)系でした。ただ、この頃から自分がおかしいと思ったことは先生にはっきり伝える少年だったことは覚えていて、当時担任だったW先生が理不尽に同じクラスメイトを怒ったことがあった。僕はそれはおかしなことだ、と職員室にいってW先生に伝えW先生がその生徒に謝ったことがあった。「あのときは僕が悪かった、伝えてくれてありがとう」と卒業式の時にW先生には言われた記憶がある(W先生、素直)。
また、小学校5〜6年生のときは学級崩壊の危機があった。隣の6−4組は学級崩壊して担任の先生が休職する騒ぎにもなっていたが、自分のクラスも先生とクラスメイトたちとの対立がある時期があった。
ある授業の時に先生が出ていってしまって泣いていた時に僕と数人の友人が先生のもとにいってクラスメイトと話し合う機会をつくり、仲介役として自分はいた。若干、やんちゃな子たちもいたが、僕自身はその子たちとも話せる仲だったので「授業受けようー」とかいいながらまとめていた記憶がある。
この頃から自分の意見ははっきり持っていて伝えることを重きに置いていた。どんな立場の人であったとしても臆せず伝えてく、そういったことが僕の中にはあった。
13−15歳まで
中学校に入ると、小学校後半に好きな女の子がブラスバンドをやっていて「一緒にやらない?」と言われたのでやり始めていた。その影響もあって吹奏楽部に入り、部活三昧の生活が始まった。朝7時とか6時には中学校にきて夜も7時ぐらいまでは部活の日々。この吹奏楽部の話をすると長くなるのでかっ飛ばすのだが、僕らの代で初めて全国大会に参加、しかも2回も参加する快挙を成し遂げるのである。
まぁ、それは置いておこう。少し話が逸れてきていたので戻すと僕が社会参加をし始めるのは中学校3年生の終わり頃からだ。僕は部活と並行して中学校1年生から生徒会をやっていた(よくやってそうと言われる)し、中学校2年生では生徒会長に推薦されて生徒会長に選ばれた(よくやってそうと言われる)。
しかし、困ったことに生徒会長も部活も同時に引退したのは3年生の11月だった。受験勉強もあって道立と私学をどちらも受けることにしたのだが、勉強が暇すぎて「何かやりたいなーと思っていた」そんなときに自分の家から徒歩10分ぐらいに駅が新設されて民間の巨大な施設が建ったのだった。「なんか面白いのかなー」と思って暇人だったので歩いて行ってみると「ボランティア活動センター」というのがあり、「ボランティア?」という言葉を初めて知った瞬間だった。そこの職員さんがきて説明してきた。
職員さん「ボランティアっていうのは、お金はもらえないけど社会的に意義のある活動に参加することだよ」
今井「なるほど、そうなんですね。全然知りませんでした」
職員さん「今度ね、ここの施設でボランティアを募集してる人たちがイベントするからきてみてるといいよ。NGO屋台村っていうんだよねー」
今井「へー、そうなんですか。わかりまして、きます」
と言って僕は実際にそのイベントに行ってみた。
※写真は2004年のもの
僕がいったのは2000年になるが、そこで様々なNPOの活動に出会った。砂漠を緑化するプロジェクトやUNICEFも初めて知った。このときは衝撃的で、ほとんどのNPOの方に恥ずかしかったのだが、もじもじしながらも話を聞いてみた。生徒会や部活動ばかりの人生だったので、知らない大人に自分から語りかけるというのはなかなかのハードルがあったのだが学校の勉強では全く習うことのない環境問題や紛争問題、こどもの貧困などを知って興味津々だったのだ。
「あの・・・」
と当時15歳だった僕は声をかける。そうすると、
「あーら若い子ね、どうしたの?」
「いや、あの・・・活動のことを教えていただけないですか?」
と聞いた。NGO屋台村でひとりできている10代の中学生はいなかったので、物珍しそうに見ながらみんな丁寧に教えてくれた。そうしながら、ひとつひとつのNPOの話を聞いた。もらったパンフレットが手に余るぐらいになってはいたが、年次報告書のようなものももらって家に帰って読もうと思った。その帰り道に施設の隣にできたブックオフがあり、「関連する本も読んでみよう」と思って買ったのがレスターブラウン著の地球白書だった。
当時はこの本は中古で百円で売られており、購入。何が課題なのかを考え始めた。地球温暖化や化石燃料の枯渇の問題など、この頃ホットな問題として扱われており、僕は家でひとり考えた。
「とはいえ、僕がひとりできることってなんだろうか。勉強なんてどうでもいいから、何かアクションとりたいな」と思った。
ここからが僕にとって初めてのソーシャルアクションだったと思う。
決めたことは家から学校まで行く道、帰り道の時は袋を持ってゴミ拾いをしていくこと。
割と勇気がいた。見られたら恥ずかしいだろうなーと思っていて、1月末とか2月の頭ぐらいだったので雪のシーズンど真ん中。そんなときでも僕は受験勉強にはほとんど関心も持たずにひとりゴミ拾いを初めて行った。
「なにしてんの?」
と友達に聞かれたら
「いや、ちょっとゴミ拾いだよ」
「なんでしてるん?」
「いや、ちょっと環境のためで」
とかぐらいしか当時は言えなかった気がする笑
「へー、ムッキーらしいねー」
友達からのあだ名は「ムッキー」と呼ばれていて(由来は、ミッキーマウスをムッキーマウスと小学校時代に呼び間違えており、それからあだ名がそうなって定着した。いまだに小中学校の同級生たちに結婚式などで呼ばれると必ずそう言われている。やつらは本名もう覚えていないのではないだろうかと疑問を抱いてる)僕は黙々と作業をやっていた。
困ったのが行きにいったときにゴミをどこに捨てるかだったのだが、先生に「ゴミ拾いしてきたんだけど、これどうすればいいでしょう?」と聞いたら「用務員さんに聞いてみたら?」と言われて用務員さんに理由を説明して
「あ、そうなんだ。わかったよー」
と言ってくれて片付けてくれた。
今井「ありがとうございます!」
用務員さん「なんでゴミ拾いをしているの?」
今井「実は、最近、地球環境の課題のことを知って何かできないかなーと思って」
用務員さん「え!?そんなためにやっているの?」
と言われて「いやー、すいません、協力していただいて」とか言って、その場は立ち去った。しかし、1週間、2週間ぐらい続けて卒業式が迫ってきたぐらいだったか、用務員さんが一度手伝ってくれたことがある。校門の外にも出て帰り道の神社があるぐらいまでの短い距離だったが、手伝ってくれていた。あのとき、なんとなく記憶にあるのだがタバコを吸いながら手伝ってくれていた(たぶん、いまではそれは社会的には許されない行為なのかもしれないが)。でも、自分の行動がきっかけで他の人が興味を持って手伝ってくれることに初めて体感し、妙な高揚感を抱きながら僕は帰って行った。
2001年3月、僕は公立の中学校を卒業し、立命館慶祥高校に通うことになる。そこで、僕は一つの決意をしていた。それは昼ごはんを食べずにお金をためて、環境や紛争の問題に取り組むことだった。
16ー18歳まで
高校入学と同時に僕は決めていたことを実行した。「弁当作るのは大変だと思うから、1日あたり500円もらってもよい?学食で友達とも食べるから」と言って週2500円をもらった。それを僕は本を読みあさること、あと貯めていくことにした。
最初から高校の同級生たちからは奇妙な目で見られた。「今井、ご飯食べないのか?」と言われたが、僕は頑なに食べずに我慢して生活していた。戦後復興に携わってきた人々も食事を満足に食べられなかったと聞いているし、自分もそういった人々と同じ気持ちになりたかったからだ。
冗談は置いておいて、学校での生活に慣れるまでは大人しかったが、僕にとって衝撃的だったのは911だった。
テロと呼ぶことにも疑問はあるが、なぜこのような事件が起きてしまうのか。自分が社会で何もできていないことに悔しい思いがあった。
それから1ヶ月後、僕にとっては決定的な出来事が起きた。日本時間だと10月8日だったような気がするが、アメリカによるアフガニスタンの空爆だ。
その日、僕は授業を受けながら憤りを感じていた。なぜテロとは関係のない国の民間人や子どもたちを空爆で殺害していくのか、という憤りだった。とてつもない怒りだった。
「こんな社会おかしい」
帰り道の地下鉄で叫びたくなる衝動があったが、周りをみていると普通にみんな仕事や学校帰りだった。当時はスマホを持っている人はいなくて、ガラケーを持ってメールをしている人々たちの光景を見た。彼らに何も罪はない。でも、なんだろう、この怒りは。戸惑いを自分でも感じつつ、僕は考えた。
書きながら思うのは僕は理不尽な思いをせざるを得ない環境、状況の人を見ると怒りを感じるし、その人のためにできることを常に考えることを高校時代から続けてきていた。このとき、考えていたのは紛争解決人の存在を知って国連かNGOで働きながら動けないかと考えていたので、17歳でベトナムに行って孤児院を回ったりひとりで東京や日本全国のNPOを巡ったり、早稲田や慶応の高校生たちと高校生環境フォーラムというのを主催して北海道からひとりで渡り、勉強会を行なっていた。SNSがない時代だったが、インターネットがあったおかげで様々な人とメールでやりとりをして(携帯は18歳、卒業直前まで持っていなかった)学校のPCを使って自分で行動をとってきていた。
その後、NGOをつくりイラクに渡って医療支援の活動を行おうとしたプロセスの中で人質事件があったのは周知の通りだ。
行動の源泉
僕の行動は怒りだ。不条理に対する怒りが強い。今でも僕は起業家でありながら、支援の現場に立っているのは見過ごせないからだと思う(かなり最近はスタッフに現場は任せているが、実際にかかわりたい意欲が強い)。
親や教員から否定されてきた不登校や高校中退の子たちの相談に乗っていると本人たちのいいところをよく見つける。時間はかかるが、そういったことを指摘したり活かすための仕事を見つけていくと、力を発揮して仕事をしている子たちを何人何人も見てきた。
しかし、周りは否定する、親は面倒を見れない(様々な要因があり、見れない環境下にあるのだろう。だからこそ周りのサポートが必要だと思う)という環境下で子どもたちが社会に健やかに出ることができるだろうか。大人たちで「自己責任だから」という人がいる。いや、違うだろ、と僕は言いたい。その子が社会で動けない環境にあるならば、それは僕たち大人や社会の仕組みがおかしいのだ、と声を大にして言いたい。ひきこもりを数年やっていても関わりの中で在宅の仕事をし始めて正社員になった子もいる。障害を持っていても会社で働きながら生計を立てている子もいる。適性や環境を変えたりして時間をかければ子どもたちは何かしら勉学や仕事に励んでいくし、別にそうでなくてもよい。その子が健やかにまずは生きていく中で生活保護が必要であればとればいいし、そこから何かを見つけることもあるだろう。
怒り、これはフツフツと自分の中にある。だからこそ、行動して関わっている10代の子たちが生きやすくなる環境や仕組みを作ろうとしている。
怒れない呪縛もあった
ただ、僕もイラク人質事件の後遺症だと思うが、素直に怒れなくなってしまったのは自覚としてあった。ここ最近まで。それを社会に表現しようと思った時にブレーキがかかる。「この発言をしたら、スタッフに迷惑がかかるかもしれない」「また批判がたくさんんくるかもしれない」という分厚いブレーキだ。呪縛のように自分の精神にこれはくっ付いているし、これは自分や人の力を借りて(正直、スタッフたちのおかげで取り除かれてきた感はある)で長年かけて取り除いていくしかなかった。無論、僕も結果的に人質になったことで政府関係者に動いていただいたことには感謝しているし反省するべきことだろう。だが、国側が個人を自己責任という言葉で切り捨てる例をつくってしまったのは悪例だと思う。
怒りを超えて優しさをブレンドする
感覚的には少しずつ、自分の怒りの感情に素直になれてきていると思っている。というより、今は怒りと優しさがブレンドしている。
怒りだけでは多くの人を傷つけてしまうかもしれない。だからこそ、自分も傷ついてきたからこそ、落ち着いた優しさをブレンドしてNPOの仕事をしている感覚かな、と。
ここまで昔を振り返りながら
「今井さんってイラクにいって子どもたちの支援できるとか、なんでそこまで行動を起こせるんですか?」
「子どもたちになんでそこまでサポートできるんですか?」
という質問の回答をしてきて長くなってしまった。僕はそういった感情を元に仕事をしているのだが、僕はいま20人弱ほどのスタッフたちと一緒に仕事をしている。みんな、変わった背景を持つスタッフたちで民間企業や学校教員として働いてきたメンバーが週4や週5、業務委託で日本全国で働いている。
言いたいことは何かと言うと、僕一人だけでD×Pの仕事ができているわけじゃない。スタッフたちがいるからコロナの状況下でもひとりひとりの子どもたちと関わり、学校現場でもオンライン相談「ユキサキチャット」でも日々活動していっている。
そして、そこには1000名を超えるサポーターや400名近いボランティアの方々がいる。日々、感謝でしかない。
怒りもある。しかし、優しさを持ちながら「ひとりひとりの若者が自分の未来に希望を持てる社会」をつくっていきたい。
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