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119「田舎医者」 カフカ

 151グラム。カフカといえば最初の印象は学生時代の「とにかくでっかい虫は勘弁してください」というくらいのものだが、いい年になってから落ち着いて読むと涙が出るほど面白い人だ。辛い辛いと言いながらおかしなことばかり考えてる。

どれも面白い短編集の、中でも印象深いのは『田舎医者』だ。文庫で12ページ程度の大変短い作品である。

 田舎の医者が吹雪の中、急に遠方の患者に呼びだされるが馬がない。酷使されて死んでしまったのだ。貸してくれる人もいない。途方にくれていたところ、なぜか自宅の豚小屋から立派な馬二頭と見知らぬ馬子が出てきて馬車の用意をしてくれる。
  しかし自分が行くと、粗野な馬子が女中のローザを手籠めにするに違いない。往診をあきらめようとするが、いきなり馬が駆け出して、あっという間に患者の家に連れていかれてしまう。
 患者の少年はわき腹にバラのような傷があり、助かりそうにない。患者の家族は何でも直してくれるものだと信じ切っている。医者は残してきたローザが気になるので逃げ出すようにして馬に乗るが、来た道とは打って変わって馬はとぼとぼと進み、なかなかかえりつかない。

 責任感の強い人である。吹雪の夜に誰も馬を貸してくれないのであれば往診を断っても構わないようなものだが、とにかく行く。
 しかも責任感は「自分が行ってなんとかしなければ」というヒロイズムではない。「行ってもどうしようもないんだけど断るわけにはいかない」という勤勉な無力感によって支えられている。行くと大事なローザが奪われる。行っても別に感謝などされない。せっかく万難を排していった割には診察は適当だ。あちらを立てないし、こちらも立ってもない。

どこからが現実でどこからが非現実なのか判然としないとは思っていたが、今回読んで初めて目に止まった文章がある。

裸で、この災い多い時代の身を切るような寒気にさらされ、この世の馬車と、この世ならない馬のまにまに老いぼれの私がうろついている。毛皮がうしろにぶらさがっている、私には手が届かない。落ち着きのない患者どもの誰ひとりとして手をかしてくれない。してやられた!してやられた!たとえ偽りにせよ夜の呼び鈴が鳴ったが最後―もう取り返しがつかないのだ。

「この世の馬車」と「この世ならない馬」と、ここだけ非現実の境目がはっきり書かれていたのである。「この世の馬車」を走らせている「この世ならぬ馬」は社会にたくさんあるではないか。

 昨今、夜遅い時間の電車に乗るとストロングゼロのロング缶を飲んでるサラリーマンをしばしば見かけるのが、いつも心に刺ささるのだ。狭い横並びシートでも、周りの誰にも迷惑をかけないように考え抜かれた洗練された仕草で器用に缶を足の間に挟んで安定させながら手慣れた感じで柿の種を静かに食べていたりする。
 いますぐに我を忘れてしまいたいほど疲れている長い家路。あのストロングゼロはこの世の電車を走らせるためのこの世ならぬ馬ではないか。責任感が強くて人に迷惑をかけないタイプの人にとって、帰り路は長いものだ。

 馬子に奪われたに違いない女中のローザも、苛立ちで豚小屋の扉を蹴ったとたんに四つ這いで出てきた謎の馬子も、脇にバラの傷を持つ死にたがりの少年も、三人とも田舎医者自身であるようにも見える。
 ローザと少年には、なにか無垢にセクシュアルな感じがある。医者は二人とも救えない。あるいは、医者の努力とはまったく関係なくふたりとも幸せになるのかもしれない。馬子は医者の家を乗っ取っただろうか。だとすれば医者にはもう帰る場所もない。

 暗い事ばかりのようでもあるが、この半分非現実の世界は実はかなり楽しい。

家族は顔を輝かせて私の診察ぶりに見とれている。娘が母親にささやき、母親が父親にささやき、その父親は客たちに伝える。つま先立ちして両腕をのばしバランスをとりながら、開いた戸口にさし落ちる月光の中を客たちが入ってきた。

娘も母も父も変だけど、客が決定的に変だ。つま先立ちをして両手のばしてバランスをとりながら入ってくる客、ってどういう村だ。想像すればするほどおかしい。

 終電ちかい電車内で見かけるストロングゼロは胸が痛むけど、でもその人が遠慮がちに食べてる柿ピーの散文的な匂いがあたりに蔓延しちゃってるのは妙におかしい、というような。世界はわき腹にオモシロの穴が結構開いている。少しだけズレところに秘密の通路はいつもあって、現実と非現実は案外シームレスに溶け合っている。田舎医者はいまも、吹雪の中をうろうろしているのかもしれない。

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