読んでない本の書評46「キャロル」
234グラム。なかなかボリュームのある青春恋愛小説と思って読んでいたら途中からまさかの大陸横断ロードノベル。
19歳のテレーズと美人人妻キャロルの恋物語。
巻末の解説によれば「『キャロル』が発表された1951年はマッカーシズムの赤狩り旋風が吹き荒れるまっただなかであり、同性愛者もまた、国家の人間の健康を心身ともにむしばむ、犯罪予備軍とみなされ、苛烈な弾圧を受けていた時代でした。」
当初は別の名前で出版され、「太陽がいっぱい」で有名なPハイスミスの著作だったことが明かされたのはだいぶ後なのだとか。
でも、かえってのびのび書いてるような感じもする。綺麗なもの、おいしいもの、恋愛によって景色をかえてゆく世界など、素敵なものでいっぱいで、読んで楽しい。「卵をのせたホウレンソウのクリームソース」ってどんな食べ物だ。ちゃんと腹にたまるのか。
華やかさは華やかさとして、やっぱりハイスミスなんですね、と思わせる油断ならなさもある。
美しく、お金持ちで自信に満ち溢れた大人の女性キャロルは、テレーズにとっては絶対的なミューズではあるが、あんまりいい性格には書かれていない。何を根拠にそれほど自信家なのかが判然とせず、明確に美人であること以外は、案外散漫な印象の人なのでもある。
子犬のように一生懸命キャロルをおいかけるテレーズもかわいいのだけど、なぜか勤務先の親切な中年の同僚ミセス・ロビチェクをいきなり延々と嫌悪感と憎悪を込めて描写しはじめたりするところが怖い。「その人、全然関係ないじゃん。なぜっ?」となるところだ。
とはいえ、お金にも容姿にも恵まれず生活のためにただつらい労働を繰り返している同性へ向かう若い女の子の容赦ない視線も、身に染みてわかるところはある。 悪口の冴える小説というのはだいたい面白い。
テレーズが19歳、キャロルは30歳を少し超えたところ、ミセス・ロビチェクが50代。生きることに必死な女性の人生が広範囲に網羅されているのである。自分の未来がどうなるのかまったく先の見えないテレーズがパッと見、理想の大人に見えるキャロルに夢中になることも、絶望的な人生の終末と映るミセス・ロビチェクを生理的に嫌悪することも、根っこはおなじ、生きることへの情熱なんだろう。
小説の後半、喜びと絶望の間で振り回されるアメリカ横断自動車旅行の中でテレーズは唐突にミセス・ロビチェクにソーセージを送ろうかしら、と思いつく。やっぱりやめよう、と思ったところをキャロルに見とがめられて、半ば強引に送らされるのだ。
散々な結果に終わる旅の最後、一人で失意のどん底にいるテレーズのもとにミセス・ロビチェクから、単純でくどいような、しみじみとしたお礼状が届けられる。それが、失恋中のテレーズの心にいかほど響いたのか、あるいは響かなかったのかに関してはなにも書かれない。そういうところが、いい。
「ダーリン、自分もいつか71歳になると考えたことはある?」
「ないわ」テレーズは答える。
まさか、と思っているうちにみんなあっという間にグルコサミンとかそのほかのものとかが足りなくなっていく。そして若者は、盲目的に愛ばかり急ぐ。