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星の降る夜

午前1時半。こんな時間だからそろそろ寝るか? という人はいっぱいいても、こんな時間から一日が始まる人はあんまりいないと思う。僕が一日中座っている机の前には大きな窓があって、こんな時間に部屋の灯りを点けずにいると満天の星空が見える。夏の間はデッキに日除けをつけていたので見えなかったけれど、一昨日それを外したから机に座ったままでも部屋の灯りやパソコンを消せば星が見えるようになった。

高校生の頃、月に一度くらいだったけど、渋谷の東急文化会館の一番上にあったプラネタリウムに行っていた。僕は星や宇宙のことについてほとんど無知だけれど星や宇宙は好きだ。でも星や宇宙のことを考え始めると、次の日学校や会社へ行くのが苦痛になった。自分の生きている世界の全てが卑小で無意味に感じた。
17歳の無知な高校生は西蔵旅行記を読み川口慧海に憧れていた。自分の中にあるすべての物欲と決別して精神世界で生きていたいと思っていた。自分の周りにある下種で些末な人間関係には眩暈がしていた。家族がどうこう、友達がどうこう、彼氏彼女がどうこう、上司が、舅姑が、電車に乗り合わせた人が。
僕たちが押し合いへし合いしながら生きているアリの巣の如きこの星は、窓の外に瞬いている幾千の星の一つに過ぎない。僕にとって宇宙を考えることは自分の卑小さを突きつけられることでしかなかった。だから夜空の星を見上げる時は、ただただ見るばかりで何も考えないようにしていた。

高校を卒業した10年後、僕は日本からチベットを経てインドへ行こうとした事がある。いわゆる三蔵法師ごっこで、人によっては「自分探しの旅」とか言っちゃうやつだ。
大阪から船で上海に入り、1週間かかってやっと切符の取れた夜行列車で西安まで行き、そこからさらに遅々とした歩みでチベットの玄関口ゴルムドまでたっぷり11日かかった。けれど当時チベットは中国政府の外国人入境禁止令が出ていて、1日1本だけある定期バスには乗せてもらえず、僕は羊を運ぶトラックを捕まえて口の臭いチベット人運転手に人民元の札束を掴ませ、ともかく行ける所まで乗せて行ってくれと頼んだ。闇両替で兌換券と交換した厚さ15センチぐらいの札束を見て運転手は驚いてた。身振り手振りと筆談で僕の提案をやっと理解した彼は、前歯の数本抜けた口を開けて全身で笑った。名前は? と尋ねると「オラン」と答えた。多分その札束はオランの何ヶ月分かの稼ぎに等しかったのだと思う。このオンボロトラックに乗り込んで、途中人民解放軍の検問さえなければラサまで行けるだろうと思った。

タクラマカン砂漠の東端からチベット高原に通じる道のうち、車が通れる道は当時一本しかなかったように思う。それは文化大革命の時だかに漢民族がチベット王国を占領するために作った軍用道路だ。日本のオフローダーが得意げに「荒れた林道」だのなんだのと言うレベルが「道」なのだとしたら、チベットへ続くそれは道ではなくただの山肌。山にタイヤの跡がついているだけ。けれど人間ってのは目の前にソレしかなければ、それでなんとかしてしまうたくましいものなのであるよ。日本の解体屋じゃ見向きもしないようなクズ鉄同然のトラックだって、行く気さえあれば標高四千メートルのチベットまで行ける。
んで、僕は痩せこけて薄汚いヒツジさんたちと一緒にトラックの荷台へ乗り、距離にして1000キロ弱、高度差にして3000メートル以上を4日間かけて走るのでありました。

標高が富士山に近くなる頃から気持ちが悪くなってくる。それがいわゆる高山病。眩暈がして、心拍が乱れ、屁が絶え間なく出て、終始吐き気をもよおす感じ。というか吐きっぱなし。でも最後は吐くものがなくなって胃液しか出ない。
用意のいい人やお金持ちの人は携帯酸素を持っていくらしいし、ラサのホテルには常時酸素ボンベが置いてあるらしい。だけど人民解放軍の目を盗んでこそこそ旅をする不届き者にそんな余裕はないのだ。
酸素さえあれば一気に回復する風邪より容易いシロモノなんだが。下手すりゃこのまま死ぬのかも知れんなぁ、と思いながら、羊の乗ったトラックの荷台へ横になり、ひたすら身体が慣れるのを待つ苦しい旅だった。覚えているのは羊のウンコとオシッコと乳の匂い。そして空の色が青ではなく紫に近い色だったこと。チベットは、天上の国。

最初の夜はトラックの助手席で寝た。運転手のオランは燃料を節約してヒーターをつけなかった。2日目の夜は避難小屋のようなあばら家で彼と野宿した。標高は初日よりぐんと上がって3900メートル以上。ひと晩中火を焚いていないと凍死するらしい。オランは身体に10枚ぐらい毛布を巻きつけ、僕にも同じくらいの毛布を貸してくれた。毛布は擦り切れて薄汚れて、家畜の匂いが染み付いていた。3日目にやっと地面は平地になり初めて「宿泊施設」らしきものにありつけた。
ボロボロのテントにボロボロのベッド。宿代は都会のホテル並。けれど布団で眠るということがどれだけシアワセな事か、僕はその時しみじみと考えた。お湯で顔や手足を洗う喜び。自分で用意しなくても暖かい食事にありつける幸福。夜行獣や蛇やサソリや追いはぎを恐れないで眠れる安堵。
けれど、翌日このホテルからラサへ向けて数キロ走った所で僕の乗ったトラックは軍事境界線監視の人民解放軍に捕まってしまい、結局チベットの首都ラサまでは辿り着けなかった。現代世界で旅人の足を阻むのは、海や川や山ではなく、味気ない政治なんだな。目の釣りあがった解放軍に銃剣のついたライフル突きつけられるのはスリリングだぞ。

オランはラサまで羊を運ばなけりゃいかんし「外国人はここで帰れ」と兵隊は言うし、僕は仕方なくトラックがラサを往復して戻ってくるまでの間、ボロボロのテントホテルで帰りを待ち、ゴルムドまで乗せて帰ってもらうことにしたのだった。宿の家族は全員チベット人、話すのはチベット語。僕が知ってるチベット語は

オム・マニ・ペメ・フム

という祈りの言葉だけ。
チベット人は一生に一度、その言葉を繰り返し繰り返し口に唱えながら、五体投地で聖地ラサを目指すらしい。オム・マニ・ペメ・フム。オム・マニ・ペメ・フム。オム・マニ・ペメ・フム。言葉の通じない天上の国で僕はオランが帰って来るのを待ち続けた。バター茶とツァンパを食いながら、富士山よりも300メートル高い天の国で、僕は空と雲と山とペンペン草を眺めながら過ごした。その標高になると鳥さえもいない。聴こえてくる音といえば、風の囁きとチベット人の唄う歌だけだった。それはまるで、世界の果ての桃源郷で過ごすような日々だったな。

夜になると信じられないような星空が頭の上に拡がっていた。全方位360℃、すべての地平線から上を星空が覆っていた。東急文化会館のプラネタリウムなんか比べ物にならない星の数だった。僕はあの時シミジミと、たとえば富だとか名誉だとか地位だとか、たとえば技術だとか才能だとか、たとえば歴史だとか芸術だとか。そんなものの卑小な哀れさを心地良く思った。痛快だった。こんな宇宙の隅の砂粒よりも小さな星の「歴史に名を残す」なんて事の意味や価値が、薄っぺらなマスターベーションにしか思えなかった。
僕はあのチベットの夜空に対峙して以降、目の前の現実に凹むとき宇宙を考えるようになった。あのチベットで見た紫色の夜空を思い出し、現実など取るに足らないものだと思うようになった。そうして何十年かを過ごしてきた。

そして今の僕は部屋の窓から夜空を見上げ、卑小な「現実」に溜息する代わりに幾つかの星を探すようになった。それは僕が愛した人の星であり、僕が愛した猫たちの星だ。毎夜人々が寝静まった時間に起き、床の抜けそうなデッキに出て星空を見ている。僕はもう現世には見るべきものも望むものもなくなってしまったような気がする。だから夜空を見上げて愛したものたちの星を探している。

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