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【 ニンゲンの詩 】 私のプライド



なにひとつ
思い残すことはない
もちろん
もっと上も
もっと下もあっただろうが
私にはこれが
ちょうどいい人生
     
巣立った子供たち
やり遂げたいくつかの仕事
今も私の枕もとに座る
年老いた妻
私がこの生で得た
これらの充分なものたちに
別れを告げるべき時は
近い
     
妻が清拭してくれる
この古い身体
飯を食べる時
その辺を歩く時
仕事を片付ける時
妻を愛する時
今まで越えてきた全ての時を
常に一緒にやってきたこの身体
すっかり力を失い
水分を失ったこのいとおしい塊に
別れを告げるべき時は
近い
     
私はこれ以上を望まず
私は運命を受け入れる
私という影だけを残して
私はここから消え去る
     
それでいい
     
そうして
私の最後の戦いが始まる
これまでこの地上を闊歩した
数限りない先人たちと同じように
私は死ぬのだ
どのような賢人も
どのような愚人も
みな同じように
一人残らず死んできた
今窓外でわが世を謳歌する蝉たちも
来年の夏を迎えることはない
     
だから私も死ぬ
それはいい
     
ほんの一瞬先のことさえ
定かではないということが
この生を面白くしてきた
先がわからぬ不安を
希望という言葉に置き換えつつ
この生を歩いてきた
いわば私は
生きることに慣れたベテラン
その私が
     
今はじめて立つ
この死というもののほとりで
なすすべもなく立ちすくむ
     
これほどの人が死んできたというのに
この先を知るものはない
これほどの死をもってしても
この先を見通すことはできない
誰もが経験できるほどに
死というものはありふれているが
それを越えた向こう側は
これほどの死を重ねても
透かし見ることさえできない
     
そして
ついに私はそこに至り
ついに私はそれを経験する
ほかの誰でもない
この私が
     
それは
底の見えぬ谷に
飛び降りるようなものだろうか
岩に叩きつけられるか
水柱を上げて着水するか
それとも終わりのない落下を続けるか
知らずに落ちていくようなものだろうか
     
それは
生還不能な戦いを
戦い続けるようなものだろうか
いつ胸をえぐられるか
いつ背後から斬りつけられるか
それとも敵地に楽園を見つけるか
知らずに盲進するようなものだろうか
     
それは
得体の知れぬ悪女との
恋に溺れるようなものだろうか
昇天しながら墜落するか
築きながら踏み潰すか
それとも絞めながら刺すか
知らずに舐めあうようなものだろうか
     
本当によくできていることに
思わず笑みがこぼれる
最大の試練
最大の葛藤
最大の戦い
それが
一番最後に
みなに等しく
用意されているなんて
     
私の顔面に張りついているであろう笑みは
私の歩んだ生に裏打ちされた
私のプライド
     
私はその一歩を
今踏み出す

     
今・・・


     





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