主張 ~価値について
最近、自分と年の近い人が、まるで商品を見定めるかのような、商品としての価値を問うような視線にだんだんとさらされるようになっていく感じがびんびんと伝わってきてとてもつらい気持ちになります。そういったことは当たり前なのでしょうか。その視線自体は、何の罪悪も孕まないのでしょうか。そんな視線を向けるということが、恥ずかしくないのでしょうか。
「商品価値」が無いのは、悪いことですか。少女や少年に価値を付ける資格が、いったい誰にあるというのでしょうか。なぜそんなに安く汚れた価値の尺度が、あるひとつの純粋な魂にたいして適用されうるのですか。
どうしてそれほどまでに、価値の有無を問うのですか。
誰にも買うことなどできない、気高くまっしろな心が、ひとたび残酷で苛烈な市場にて容赦なく競りに出されたら、一瞬にしてその心は傷つきすり減り値踏みの視線にもまれて生き生きとした輝きを失います。卑しい「買い手」が考える「消費者のニーズ」の型に抜かれて、あるがままに純粋だったかつての心は見る影もなく変形し、気高い白さの上に悪意や好奇の泥が塗られます。
一方的に値札を付けられ見捨てられた少女は、「私がいけないんだ。私に価値が無いのがいけないんだ。求められる材料にならなきゃ、結局生きられないんだ」と自らを責めます。なぜなら今、自分にたいして価値が問われているから。すべての人が、価値を求めて自分に向かってきているから。
「価値なんて、自分に問わなくてもいいんだよ。」
「他人の自慰自涜のために、自分のかたちをねじ曲げる必要なんてないんだよ。」
「ありのまま、生まれもったそのままが、価値の度合いをはかる秤に乗せられることなく在り続ける。ただそれだけでいいんだよ。」
一旦市場に出されたら、こんなことを言ってくれるやさしい人は誰もいません。
死んだ目にふたたびもとの光を戻してくれる者はいません。
みんな、大声をあげて競りをしている。売ります買います買ってほしいそれが欲しいなるべく安く手軽に買いたいです安く売ります買ってくださいあれが欲しいこれが欲しいでもお前は不要だ。
そうでしょう?
私の言っていることは間違っていますか。
一度も他者にそういった視線を向けたことはありませんか。
何かに価値を問うて押し付けることは、すべての人に自由な行使が許された権利ですか。
価値の無いものをどんどん捨てるのが、大人の生き方ですか。
私はまだ市場に出回らない規格外品で売り手も買い手もいないので、私自身がそういった視線にさらされたことはまだありません。少なくともその自覚はありません。
だから、ごくまれにいるやさしい大人の声が耳に入ることが、ぎりぎりあります。
「価値なんて問わなくていい」
「ありのままとして在り続けるだけでいい」
「価値は、命に従ってついている」
そんなふうに歌ってくれるのは、椎名林檎の『ありあまる富』です。
やさしい歌とやさしい物語を大事に抱きしめながら私は眠ります。希望をもつ余裕がまだ私の中にある、大丈夫だ、と自分に言い聞かせて。
大人の皆さんへ。そしていつか醜い大人になってしまうかもしれない、少年少女へ。
商品価値を問う態度をこちらに見せつけることで、優位に立った気にならないでください。
よだれを垂らしてジャンクフードにがっつきまくって消費消費消費、そんな楽な生き方に依らないでください。
苦しいのです。そしてこの苦しみを連鎖させたくないのです。
たすけてください。
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