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虫の鳴き声

秋の夜は、CDなどの
音楽をかけなくても、
きれいな音が聞こえてきます。

本当に心地がいい音です。

家の裏がすぐ山や竹藪のため、
虫や生き物は身近な存在です。

色んな生き物は
家の中でも出てきて
しまうものです。

以前は巨大なクモなどに
恐怖を感じたものですが、

今は、家の中で出会えば、
だまって網で捕まえて外に出す。


ある時、ムカデを殺すのはいけない、と教わりました。

ずっと前は、見かけたら恐ろしくて叩き殺していたのですが、

今は、もう下敷き、アミ、
ちり取りなどを使って、
外に出す、ようにしています。

そのときに体を痛めさせてしまうことはあるのですが、
怖いけど、黙って何か対処する、という感じです。

外や野菜作りの土の中で
様々な生き物を
見かけることはよくありますが、
そのときは全く恐怖心はありません。


蜘蛛の巣。
芸術以上です。

家の中で
ムカデが出れば、結構驚きます。

クモもゲジゲジも同様、人に話すと結構引かれますが、

住んでいる地域では
日常でのことです。

ただ、人それぞれ、
対処法はいろいろです。

ほとんどが、ホームセンターで見かける殺虫剤を使っているようです。

ただあるとき、
家で大きなクモやムカデがGと
いう家の昆虫を捕まえているのを見て、

どうやら見かけは悪いけど、
実は良い生き物だと
思いました。

ホイホイは設置していますが、
まれに蜘蛛がかかっており、
なんだか申し訳なく思います。

家の猫は、家に出た昆虫は察知して、手でつついたり、
噛み殺して食べて
しまうこともある。

ただ、蜘蛛の
活動時間は、
概ね深夜が多いです。

日中や夜の早い時間は、
ほぼ出会うことがない。

となれば、さっさと夜は
早く寝て、
朝早く起きる生活に
すればいいと思いました。

家の中では役立つ
存在であるなら、なにも
抹殺/撃滅する必要はないわけです。

ただ、あまり出会いたくないのは
事実です。

出会わないようには
早く寝たらいい、
これで解決です。

G用の薬物、ホウ酸団子や
ウォンバットのようなものは、

秋の夜に鳴く昆虫が
食べて死んでしまう。

稀に夜に鳴く
昆虫が家に入って
くることがあります。

一度驚いたのは、ほんの1cmにも満たない虫が、大きな音を出して部屋で
鳴いている姿です。

どうやってその小さな体で
音を出しているのか、
もう驚きは表現のしようがないくらい。

そんな生き物を市販のホウ酸団子等は
無惨にも殺してしまう。

よくよく考えてみれば、
多足類系のものを怖がるのは、
単に自分が怖いと思っているだけ。

怖がらなければいい。

以前、ヤフーオークションで
生きたムカデを見かけたので、
飼う人もいるのかもしれません。

クモやムカデは別に
相手を驚かすつもりも
ないだろうし、
ただ生きているだけ。

以前、微生物のセンチュウなどが、細胞や遺伝子レベルで見た場合、
人と大差ないことを知りました。

そう考えれば、人間は
結構おそろしい生き物に
思ってしまいました。 

知識や能力がるだけで、
事実上、生物全体の世界を征服
支配しているわけです。

自分もその恐ろしい生き物であり、
相当な傲慢さです。

有機農法の指導者で
医者でもあった梁瀬義亮さんは、
人は自分は生きて当然、
欲を満たすためには

手段を選ばない、
ようなものが普通。

見える世界の物事、損得のような
視点でみる、

それを「第一の目」として
表現されています。

誰もが見えることは
科学的な視点も
含まれます。わかりやすい共通の尺度のようなこと、要は見えて
わかる基準です。

人は第一の目で見える世界だけを見る。
欲望を満たすために
フラフラとして生きる。

最後は死の恐怖に怯え、
一生を終える、というのが
大半だという。

ある面、わかりやすい事実だと
思いました。

ただ、眼に見えるもの
以外、何か感じるもの、

例えば、
慈悲や譲り合いのような心をもつと
世界が広がる。

違う世界が広く深く
現れてくる、という。

その目を持つためには、
相当な日々の生活や
精神的な鍛錬が必要となる。

ただ、いくら修行し、
見えるようになった、悟ったと
思っても、実は全く
そうではない。勘違いらしい。

人間である以上、「第一の目」は、極めて強烈で何度も
湧き出てくるため、

どんなに祈りや瞑想等の
精神的な修行のような
ことをしようが、消えない。

第一の目をこえたものは、
死にかけたとき、死に直面したとき、

その他、絶望のようなときに、
見えない何かが、
ふと一瞬あらわれる/
感じるようなものという。

そのうちにまたすぐ、
強烈な第一の目の状態にもどる。
それが人間だという。

もっと深い内容が述べられていますが、
これくらいにしておきます。


自分で野菜やお米などを栽培しても、
結局は食べたい。

そのために途中で
多種大量の生き物を気づいて、あるいは気付かず、考えもせずに
殺している。

そういった傲慢さをほんの一瞬、
薄めるのが、生き物や大自然の壮大な
何かを見た、感じた、触れた
ときだと思う。

ふと思い出しましたが、
2年前、早朝にあるいていると、テンが車に轢かれたのか、
死んでいました。

ほんの2、30分前は
生きていたかのような、
生々しい姿です。

テンは鋭い爪、キバがあり、
間近で見たら、
違う世界から来た、悪魔/怪物とも言えそうな姿です。

ただ、力尽きて血まみれで
どこかに向けて

歩き切ったような姿は、
もう何も言いようがないもの。

恐怖はなく、悲しみを
通り越したような
不思議な気持ちです。

考えるまもなく、
農道から誰にも見えない、
木の下にテンを運びました。

生温かさが残っていました。
大きさはまだ50cmにも満たない程度、子供です。

以前に見た、1メートル近いテンと比べれば、まだ子供です。

血まみれでどうしようも
ないわけで、ただ人の
いないところに移動させるしか
できなかった。

ひかれなければ、
もっと生きていただろうし、
鋭い牙で多くの生き物を殺して食べていくのだろう、とも
思いました。

そのとき、考えず、
読経してしまったのですが、
一気に暗唱してしまいました。

まだ覚えていなかったはずですが、
スラスラと暗誦。

思い出しながら読むのと、
頭を使わずに読むのは、全く別です。
何も考えずに読めた。

不思議なことも
あるものです。

というのは、そのあとは、
だいたい覚えているけど、
暗唱はしばらくできなかった。

できたとしても、
文を思い出しながらだったので、
頭から読む状態。体で読んでいるとはいえない。

これだと暗誦ではなく、
まだ覚えきっていないわけです。

それはさておき、
死に直面する、それが自分自身であれば、また違うものかもしれないけど、

仮に飼い猫であれ、
ヘビであれ、死に様は哀れな
ものです。

猫が死ねば悲しいが、
ムカデが死んでもなにも
感じないのは考えてみれば、
おかしなことです。

ただ、猫は長年の付き合いや
容姿もあるので、
特別に思うものです。

野生のテンを何度も見ていると
恐怖と親しみが同時に
あったのかもしれません。

関わったものは、特別に思う、
まぁ考えてみれば普通です。


シマヘビ。道路等ではよく
轢かれています。
また鳥にもよくやられている。見慣れれば、かわいいもんです。
ヤマカガシ 毒蛇ですが、
色、動きはきれい。蛇も何度もみれば、慣れるものです。


秋の昆虫の音を聞いていると、
どうもただの音楽ではない。

特に間近で聞いていると、
頭の中、脳内から響き渡るような、あるいは全身で聴いているような
音に感じます。

耳で聞いているとは
思えない、何か違う音に感じます。

野菜作り等していますが、
その間に生き物には必ず会う。
音もすごい。どれだけ快適な音か、と言っても言葉では伝えようのない、超越した自然音です。


生命の偉大さというか、自然音、
その他生き物の容姿を
見続けること、
触れ続けることが何
かと良い気がしてなりません。

虫の音に完全聞き入ってしまい、以前、
クラシックコンサートに行く
約束をすっぽかして
しまったことがあります。

約束ドタキャン、は人としてどうかというところですが、
自然の力は偉大です。

触れて偉大さを感じれば、
常識を破るようなことさえ、
ついしてしまうものだと思います。

となると、食べるためでつくろうが、
できなくてもいい。

むしろ、その間に何か自然の音や姿、
匂い、色、に触れ見る方が、
ずっと大事なのでは、って思う。 

その中で、
自然の偉大さを感じる時は
きっとある。

おそらく、縄文/弥生期は、
そんな感じだったと思う。

自分だけが、人だけが得する、
農法ではなく、
自然のための農法、ってあってもよいのではないか、と
福岡正信さんは述べられていますが、

他の人と違い、具体的な農法や収益に直結しない内容が多いゆえ、
日本では不人気だったのかもしれない。

収益に結びつく農法/農業技術ではなく、
もっと他のことを
伝えようとしていたのは、明白です。

自然農法、っていっても
おそらく本音では、多くの人は第一の目がしっかり開いた
状態だと思う。

肥料や農薬の費用がかからない上、
さらに異常に高く売る、という人も多少いますが、人間なので、普通です。

また求めている人がいるので、
悪いことでもない。

他と比べれば、
実際に自然を汚さない農法をしている
上でのことです。

人はどこか身勝手なところ、
先の「第一の目」があり、
何かと得することを
優先してしまうようです。


食べ物をうまい、
まずい、というのは極めて
傲慢であって、

しかも自分も少ないとはいえ、
皆無ともいえない。

たまに牧場のようなところも
通りますが、

牛の声も匂いもなんだか
虚しさを感じるものです。

人は動物を完全に支配している、と恐ろしい存在だと
思っても何かできるわけでもない。

以前、水路で大量に死んでいるカエルを
見ました。

その水が、大量のカエルとともに
ある無農薬の田んぼにそのまま
流れ入る。

ホタルは以前いたけど、
もう消えた。

しっかりみないと気がつかないこと、色々とおかしなことはある。

トンボやイナゴは今は大量にいるけど、
いつかどうなるかはわからない。

そんな様子をみると、
もうダメなんじゃないか、

何かできるわけでもないし、無力。

しかも結局自分も何か傲慢さが
いつまでもある。

それでも、秋の虫の音を聴いていると、
傲慢さがちょっとはまし、
忘れるか、消えていくような気がするものです。

気のせいかもしれませんが、
人も結局はセンチュウと
同じような生き物、といった
原点に戻る感じなのかもしれない。

おそらく、自然から離れれば、
それだけ傲慢さが派手に現れる
ようにも思える。

となると、自然に近いかどうか、
を基準にする。

ちいさな範囲で野菜作りでもすれば、近い位置で植物や
生き物を見やすい。

大きな機械は邪魔で
使うこともない。

そして、なにしろ体を使う。
生き物は、道具は使わず、
体をうまく
使っているわけだし、

人も生き物である限り、
体を使う機会が減ることが
どうもよろしくない、
と思えてくる。

体を使う、なにか自然に近いものの
積み重ねに
活路がある。

あるいは、
人間だからこ見える、
第一の目を超えたものが
一時的、あるいは徐々に少しでも
見えてくるかもしれない、
って思います。

となると、料理をすること、
包丁を使うこと、
拭き掃除をすることなど、
は些細であれ、
体を使う。

体を使うことは、
決して不便といわず、
良いこととも言える。

ただ私は人間であるゆえ、
どうしようもない。

欲望はあって普通で
「第一の目」はずっとある。

それでも、たとえわずかでも
何か大事な視点を
持ちたいものです。

だからこそ、
体を使う、意外に単純なことが
大事、とまた思うようになりました。


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