新年2

人生なんてあっという間なんだわ。

僕の本音本心を少しだけ書く。
これはフィクションとノンフィクションの間だと捉えてくれればいい。
わからない人は読まないで欲しい、そして僕の前から消えて欲しい。

・・・・

僕は今、「瀬戸際」に立っている。
渚ではない、瀬戸際だと思う。
言葉の意味が解らない人は調べて欲しい。

今の今でも僕の中の答えは、「今は死なない けど いつ死ぬのがベストか(一番きれいな形になるのか)」と、未だに宙に浮いて回っている。

若い時に「死にたい」と思った人は、どこか「若い時に(若いうちに)」「綺麗な時に死にたい、死んでしまいたい」と考えたりもする。
僕もそうだった。

30歳までには、35歳までには、40歳までには。それはいつまでにというのが主題(問題)ではなくて、自分の中の問題が解決しなければ、想い描いていた未来や人生が送れないのであれば、みたいな感覚だ。
それは期待と絶望を混ぜ合わせたような考え方。
それは間違いなく心のどこかで打算的に自分の人生を妄想してしまっているからだと今は本心から言える。

どこかの音声(録音)に吹き込んだ。
人が死んで、それが世の中や社会に与える影響なんてものは本当に無い。
残念というか、それは現実と同じ。

例え僕が死んだとして、君が死んだとして、僕らが想像し想い描いているような影響力は僕らにはない。そもそも誰にもない。

だから死ぬことに対して僕は否定も肯定も今は出来ない。
なぜなら死んだところで何もいい結果は遺せない。
後始末には僕らが想像できていない事が残されるだろうし、死ぬほど苦しんでいる人と同じ人を作れるかどうかも怪しい。そこまでは思える。

それでも死にたい人は死ぬしかないのだと僕は言うしかない。
それも僕に責任や僕が原因でなければいい。人(他人)の事は申し訳ないけど、どうだっていい。それが人だし、それが世の中の流れの一つです、で片付けられて、片付かない事だけが残る。それでも僕らの命は風化するだけだけ。

・・・・・・

みんなそんなもんでしょ?
金があれば幸せか?金があるから幸せか?
それはどこの誰と比べて競い合ってモノを言っているの?

そんなこんなを好き勝手に得手勝手に繰り返しながら、人は皆誰しも例外なく、解ったような気になっているけど、所詮は人間。いずれ年老いて天命を全うするのでしょう。最期に3人残ればいいというのは本当だったんだなと真剣に心から痛感した事も、この一年と少しの結果だと思います。

そして

言える。言わない。言いたくない。言えない。は、ぞれぞれ別です。

人は変化する。諸行無常です。
今僕が言っている答えも、来年になれば変わっているかもしれない。
今を人生(運命)の分岐点(過渡期)と言っていた僕が、今は瀬戸際なんて言葉で今を伝えようとしているのだから。

人間なんて、そんなものです。

・・・・・・

昨日、何人かに電話をかけて誰もつながらず、「みんな忙しいんだろうな、いや、もしかしたらまた俺が病んでるとか落ち込んでるみたいに思われてないか?いまさら?誤解するなよ、大丈夫だよな?」と、少しは疑心暗鬼になったのも僕の事実、真実。

彼らに対して僕がそんな心配をする必要はないと言いたい。

そんな中、なめおさんから折り返しの電話があった。
まだ仕事中と言っていたので短い時間で電話を切った。

僕はその電話でどこか物足りない、煮え切らないような気持になっていた。

それはナンバーガールを教えてくれた先輩、そこから生まれ始まった僕の人生、だから僕の中では運命を変えてくれたカギになった人、そのなめおさんに、ナンバーガールの解散の話と、僕の話を伝えたいから、どこかモヤっとした気持ち、に、なったのだ。

僕の話し方なら、ここまでを句読点は「。」ではなく「、」で繋げて一気に最後まで話をしようとする。

僕となめおさんの温度差ついて考えて、下に書いてみた。

「ナンバーガールと僕の運命的な話を聞いてもらいたい。なめおさんへの感謝の気持ちをいつまでも語り伝えたい。今でも僕は良くも悪くも変わらないところはあるけれど、実は本当はこんな話や出逢いや出来事があって、実は今こう考えている。あの日の解散ライブは僕にとっての本当の意味での卒業式になった。ライブが始まる前に本人たちがステージ袖に突然現れて、客席に微笑みかけた。そんな誰も想像しないような優しい世界が僕には見えた。そしてそのほほえみは僕にも向けられている気がして、僕は感極まるどころか震えが今でも収まっていない事。ライブ中、最前列で「向井君!!」と叫びたかった。向井君は客席の声援に対して「腹から声出さんと聞こえんぞ」と言った瞬間があった。僕も叫ぶ気で何日も前からずっといた。けど僕は黙っていた。それは、今ここで僕が叫ぶ事でナンバーガールの歴史に僕が記録される、そう思ったけれど、それは違うと僕は思った。僕が目指していたのはファンとして、ナンバーガールに会いたい、そして本人に直接名前を名乗って想いと気持ちを伝えたいのだから。だからまだ頑張ろうと思った事。
そして、今も僕が迷ってしまっている話。 
向井君が「けじめ」という言葉を使った事。拳銃を僕らに向けるのではなく「ビロリンマン」という人形を出してきて「生きる」という事への思いとメッセージを本人が公式で書いた事。そして未だに忘れられない人がいる僕の事」
「山口県に行きたい事、やはり僕は山口県に縁があると言いたい事。
幸せになりたいと言いながら、死にたいとは言わずに「結婚したい」「結婚しようと思う」と言いたい自分の理想と現実の話」

この僕と

「今は忙しくしながら家族や子供のために働いて、ナンバーガールの映像をどこかで見ると今でも懐かしく熱くなる」
とシンプルに言った、なめおさんとの視点や立場、生きている世界というより背負っている者の覚悟からくる温度差があるのだと感じた。

僕には覚悟や決心が足りないのだ。
当たり前だ。当然の事だ。みんな次のステージに立っている。
僕だけがいつまでも子供のままではいられない。
いつまでも眠ってばかりいるお姫様に夢中になってさ。

死にたくない。

死にたくないんだわ。

・・・・・・・・

大人になるという事に、歳(年齢))は関係ないと気がついた。

どのタイミングで気がつくか。
いつ、どこで、誰と、どの様な形で、理由で、出会い繋がっていくのか、で僕らの物事は変わっていく。


どんな運命や道を辿っていくのだろうか。

それが遠回りや、何かの間違いや、それこそ ふと風が吹いたように 魔がさしたり、うっかり足を滑らせて落ちてしまったり。それでも解からなかったり。
それでもどこかで大人になる為に歩まなければならない過程があるのだと思う。それは儀式儀礼的なものではないけれど、その人の主義主張や生き方、生き様の上で理解して納得させられる答えを自分自身で見出さなければならないのだと僕は思うのだ。
それを乗り越えて、自分の中で決着が付けば次に進めたりするのだと思う。

世の中は今も変わり続けているので、答えなんて変わり続けるし、正解なんてものはないのだから、そんな事はもう今なら分かる(解かる)。
だからそれを乗り越えていく為に歩む過程や道のりに対して、
年齢なんてのは関係ないのだと言いたい。

でも、それを言ってしまうと、こうやって書いてしまうと。
何もなかったかのように「風化」して、生きていく理由が自然と生まれて、それは良かったね「良かった良かった」と言われるのが僕は辛く、許していないのだ。

・・・・・・・・

僕は年齢と経験はどこかで関係があって、どれだけの修羅場や成功体験をしていようが20歳の人と30歳の人とを並べて比べれば、それは当然30歳の人の方が語れるものがあると思っていた。けれどそれは同じ経験をした者同士を並べた場合という現実ではありえない条件を付けた場合の話だ。

この話の答えは変わらないが、昔の僕が言いたかった事から少し変わったなと思う部分は、そもそも並んで比べて語って、どちらが良いか悪いかの優劣を決めようとするものではないという事だ。
そこで人生の勝ち負けを言い争うようなこと自体が間違っているのだ。

もしかしたら皆「そりゃそうだろ」と言うのかもしれない。
けれどそれっていつからそう言えてたの?と言いたい。

いつごろから本当に大切なもの、何が大事なのか、人生は他人と比べるものじゃない、そんな言葉を皆いつから言っていた?

僕は時が止まっていた部分がある。だから聞くよ。いつから皆そのドヤ顔で語っていた? 自然な顔でシレっとやる事やりながら、よくそんな事が言えるなと僕は言いたい。けど、今は言わない。極力、自然と僕は黙っている。

昔から解かってますけどみたいなツラで言うけど、お前も何様だよ、と僕は言いたい。

僕が優劣や勝ち負けの価値観に憑りつかれて、何も出来なくなってしまっていた理由は皆にあるとは言っていない。
母親の悪影響だ。それは認めて。
僕が死にかけた理由も母親だ。そして、その引き金を引いたのはあの子だ。

僕は譲らない。だから、譲らない。だから理解できない人は黙って消えて。
だから本当に小さなこと。先人から見れば本当に僕は小さな小さなことで地団太を踏んでいる。
親なんて自分の生きていく道の上でどうでもいい存在にもなるのに。

・・・・

家族に対して、ご先祖様に対しての感謝や敬意はある。人よりも強くある。
だから、繋いできた命に対して感謝することを綺麗ごとや偽善とは言っていない。
けれど、親に感謝しなさい、のような事を100パーセントの絶対的正解のように語って諭してくる事に対しては違和感がある。

所詮は人間なのに。

自分は聖人君子でもないと言う人でも、親や家族に対しての思いや考え方を語る時は、人間同士でお互いに勝手な押し付けで語ってくる。
僕も他人から見ればそういう押し付けの部分があるのだろう。

それも分かってきたからその上で、僕は少しは静かになった。

誰も親や先祖様を無下にして足蹴りして生きていくことが正しいとも、これが新しい価値観や生き方だ、と無知で愚か者が吐き出すような話を僕はしているとは思っていない。別に自分を正当化している訳じゃない。
誤解をしないで欲しい。けど、見方 見え方なんて誤解しないでとか言ったって到底無理な話なのだ。

今の僕と繋がっていない人は、今の僕を知らない。
例え何回か会っていたところで僕は珍しく言っていない事実がある。

僕は「だからすべてを書いていない」と前置きをしている。

嘘でもフィクションでもない。けど、カッコつけた、良く思われたい一心で、無様で下手な僕を正当化している訳じゃない。
解ってと言っても、やはり解り合えないのも人間。
分かち合えないのも人間。どこまでいっても人間なのかもしれない。

けれど、僕は今でも言い続ける。

人間には言葉があるから。

僕のここに書いてあるような支離滅裂で無茶苦茶な日本語や文章でも、何度も言うように、読める人は読めるだろうし、読みながら誤解したり、何ひとつ理解できない人もいる。

私は解った(解かる)と言って連絡してきて、見当はずれの話をしてくる人もいる。かなりいる。もう勘弁してくれ。

僕が悪いんだろとは言わない。
僕の自由だ。
僕の勝手だとまで言い切りたい。

僕には僕にしか見えない世界がある。だから僕にしか語れない話がある。
事実、今僕が抱えている希死概念と、これからを生きる為の話。
この二つは相反するけど、真実だ。そして実体験のまさかの群像劇だ。

けれど今はそれを誰にもすべては明かさない。

なぜなら僕はどうしても忘れられない、忘れたくない話がある。
忘れたくないなら忘れなければいい、それで解決せずとも済むのなら、自殺なんかしない。

間違ったって僕は自殺なんてするような人間じゃない。
そんな勇気も度胸も無かったのが僕なのだから。

・・・・・

僕には今でもまだ変わらない夢がある。

向井君に「よくやった」と言われたいのだ。

幸せになった時に、その時の為に僕の世界は存在している。

昨日なめおさんとの会話でこういう流れがあった。

「その時になったら山口県に行きますよ」
「いや、来なくていい!」
「何でですか、行きますよ!それか来てくださいよ。」
「いや、来るな、いや、行くわ。行くから来るな。ハッハッハ」

なめおさんは顔は見えないけど声は笑っている。
このやり取りは電話するたびにしていると思う。
僕はいつも思うのだ。

なめおさんは僕に逢いたくないのだと。
理由は知らないが、どうであれ、
なめおさんは僕とこうして会いたくないのだ。
再会したくない理由があるんだな、と僕はいつも思っている。

そこで僕が病んでいるとか、ましてや、山口県に行ったから何か悪い事が起きるなんて思われてはいないだろうけど、僕がなめおさんと最後に合ったのが13年も前の事だ。なめおさんの中の僕はあの時のままなのだろう。

別れの挨拶も無かった。

喧嘩別れとかじゃない。僕と、なめおさんだよ。
僕の恩人なんだ。僕が気にし過ぎているだけで、僕が解っていないだけだ。

でも、どうしてそこまで会えない理由があるのだろうかと僕は考える。
悲しくなるから考えない方が良いけど、それは皆にも言える。

お決まりの言葉だけど

「ボタン一つで繋がろうと思えば繋がれる時代だぞ」

別れの言葉は無かった。

全然聞いてなかった!!!!!!!

今日は終わり。


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