小石を積み上げて、遠い目をして延々とする生き方
浴槽の中
「死ぬより怖いものは無い。だから死ぬ気になったら何でも出来る、というのは理屈なんだよなあ」と思っていた。
終わってしまえばそんな事もあったなあ。
そんな事あったような、なかったような、と。
そうやって笑えれば、いつ笑える日が来たら良いのにな。
そう永遠に思えるような風景を想い眺めている。SAPPUKEI
ここで僕の性格や気質を見越して、「また電話して来いよ」って言ってくれる関係にまで昇華して今も付き合ってくれて残ってくれたのが、今でも電話を僕からする彼らの存在のありがたさ。
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今もこうして世の中は回っているのです。
僕がいてもいなくても、君が居てもいなくても、世の中は回っていくのです。もしかしたら君がいなくなったことで僕も消えて無くなってしまうかもしれないのは間違いない事実なんだろうけど、例えそうだとして。
それに対して何を泣くの?
泣くくらいなら、何かアクションを返してくれたら良かったのに。
こんな事には成らなかったのに。
僕はその一言にも呼応するのに。
年に一回の連絡も、手紙も、今までしてこなかった奴がさ。
生きてる間は連絡もしてこなかった奴がさ。
そんな時だけ都合よく現れたり、何とも言えない顔でやって来るのよ。
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「親より先に死ぬほど親不孝なことはない」
この言葉、昔から大嫌い。
「終わり良ければ総て良し」と似ている。 だから嫌い。
ここで親子の最後の感動物語なんてお涙頂戴劇でも見せられたら、またもう僕は発狂する。
「最後に一目会えたら 最後に「ありがとう」とお母さんに...」
おろおろおろ。あわわわわわ。。。
僕の中では偽善や美談を超越して、一番嫌いな言葉。
僕は「家族は聖域では無い」と言っている。
「家族」は別に特別な聖域でも無ければ、血の繋がった親子とはいえ他人なのです。自分の子供は自分のコピーでもないのです。
でも親は子供に自分の夢を託したり、自分を重ね合わせて教育します。
そもそも母親の100%コピーはありえない。父親がいる。
祖父、祖母。家系図(血統)を辿っていけばすごい地図になるよ。
でも他人のようで他人ではないだけ。
どこの家にも、親にも。家庭にも。
ブラックボックス。
パンドラの箱みたいな話や種はどこにでも存在するのです。
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人生100年だろうが、死ななくなったとしても。
人間やこの社会。世界、世の中がどれだけ変わろうとも。
僕には僕の範囲内で、
僕は僕の世界の容量の中で生きていくしかない。
僕もあなたも同じ人間。
「所詮、人間ごとき」がやっている社会生活の営みなのです。
それを棚に挙げて、無益な争いをするのも私たちです。
人間だからするのです。
ここまで単純な理由や、明確な動機を複雑化させて。
私利私欲と共存するのも人間だと僕は考えます。
だからといって、「人生(人間)、傷付いてなんぼだろ」「男だったら外に出たら100人の敵がいると想え」とは言いたくないのです。
僕は出来るだけ争いは避けたい。
けれど、そこにある絶対条件として。
好きな人と、好きな人とものを、好きなだけする幸せ。
自由が許される時間だけ。
一生一緒に共有して感動して生きていきたい。
僕にとっての幸せって何?
形に遺したものが答えなのだろうか。
カッコ良いの定義、カッコよさの物差しや価値観は。
世界と一緒に、僕の中でも変わっていくのだろうか。
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自暴自棄でも自殺願望でもなくて、
今夜は良い風が吹くといいね。
僕らの真夜中に、良い風が流れると良いね。
物語はいつか終わりを告げなければならないと僕は思う。
「いつかどこかで」ではなく、「必ず」と付けて、
僕らは「終止符」を打たなくてはならない。