人の営みの不思議を考えるのが僕は好きなんだろうね、っていう話
こう、暇なときにネットとかサーフィンするじゃない。すると、「正義と怒り」の文体でモノ書いたりしゃべったりしている人っていうのがいて、そういうのを見ていると、なんとなく怖さを感じるんよね。加害性があるっていうか。
じゃあ逆の文体はなんだっていうと、「好きと恋」じゃないかと。「○○が好きです、面白いです」みたいな文章には毒気がない。怖さが少ない。
じゃあそれらを分けるポイントはなんだっていうと、「幸せそうに見えるかどうか」みたいことじゃないか。言い換えれば、幸せそうに見えないと、加害性があると受け取られるんよな。
そのメカニズムは多分これだ。
何かを悪くいう人は、不幸せな人に見えるんだね。で、不幸せな人を目の前にして、何もできないっていう無力感に苛まれる時、人は防衛機制と公正世界信念から、その「不幸せな人」を責めるんだね。
でもさ、「正義と怒り」文体の人は、確かに何かをけしからんというし、悪くいうんだけど、決して不幸なわけじゃないんじゃないかな。それも決めつけっていうか。なんていうか、「まずいものが好き」っていう趣向あるじゃない。「日本一不味いラーメン」って食べたくない?まじー!っていいながら。それはもう、まずさを求めているわけだし、そこに喜びと幸せがあんじゃねーかなと思うんだ。
実際、科学は人間の脳には他人を裁くことに快感を得る機構があることを明らかにしていて。
進化論的に考えても、そりゃそうってはなしで、他人を罰するなんていう「反撃される恐れの高いこと」は、やらない方が身の安全のためじゃん。で、みんながそう考えたら、誰もが利己的に振る舞っていくし、そうすることを選んだ人類の兄弟たちは、社会を維持できず、滅んでいったものと思われる。つまりこれ、「秩序」という公共財の維持をめぐる、フリーライダー問題なんだよね、これも。
でも、裁くことに快感を覚えることができるなら、反撃のリスクを負ってなお、人は反社会的振る舞いを裁く。そうすることにした人類の子孫が我々で。まあ、なんで、他人を裁くことの快感が正義と怒りの根っこにあるとするなら、快感な訳だから、これもまた幸せの形なのかもなとおもう。
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