のらりくらり京都紀行
吉田篤弘さんの『京都で考えた』という本を、いつだったか読んだ。
手元にないということは、たぶんどこかの図書館で借りたのだろう。
その本の中で、吉田篤弘さんは、京都で考え事をすると語っていた。
京都で吉田さんがどんなことを考えたのか(すなわち、本の内容)はほとんど思い出せないのだけど、考え事をするために京都を訪れるということをいつか私もしてみたいと思っていた。
急遽、夫の出張に同行してもいいということになり、その願いが叶うことに。
とはいえ、久しぶりに訪れる京都には、行きたい場所がたくさんあって、ただ考え事をするというわけにはいかなかった。それでも、京都の街がそうさせるのか、それとも京都で考え事をしたいという私の想いからか、京都を歩いていると普段考えないことをいつのまにか考えていた。
京都の美術館めぐり
2泊3日の旅行のうち、1日目の昼間は、夫は仕事へ。それ以降は、二人で一緒に旅を満喫した。
1日目、私は一人で美術館を見て回った。
まず、京都国立近代美術館へと向かう。
企画展は、すでに東京で見たことのあるものだったから、コレクション展示をゆっくりと鑑賞した。
メモを取りながら、作品を見つめる。
たとえば、浅井忠(1856-1907)の《雪中馬》(1906)についてのメモ。
(下記リンクで絵が見られる。)
まずは、キャプションを見ずに、先入観を持たない絵の感想。
キャプションを見てから考えたこと。
浅井忠といえば、油彩技法に熟達した洋画家だ。
「日本画」という言葉は、近代になって「洋画」の対概念として生まれた。
洋画家が西洋由来の油彩画の技術習得を目指す一方で、日本画家たちは洋画に負けない日本独自の絵画を追求する。洋画家・日本画家はそれぞれが別々の方向を向いたベクトルで、ほとんど交わることはないものと思いこんでいたので、浅井忠ほどの油彩に長けた人物が、晩年に近づいて日本画を描くのはなぜなのか気になった。
浅井は、単に水彩画と同じような感覚で、日本画も描いていたのかもしれない。あるいは、洋画を教えていた工部美術学校の閉校や、東京美術学校が洋画の学科を設置しないといった洋画排斥の流れで日本画を描くことが奨励されていたのか。それとも洋画を習得したからこそできる日本画の表現を模索していたのか。どれも見当違いのような気もする。もう少し調べてみたい。
展示室をぐるりと見渡し、自分の家に持ち帰るならどれがいいか妄想する。
徳岡神泉(1896-1972)の《池》(1952年)に決めた。(この絵は著作権がまだ切れていないので、画像のリンクはない)
決めた、と言っても、持ち帰れるわけではないけれど。
この絵をぽわーっと眺める時間が1日の中にあったら、心穏やかになれそうだ。
国立近代美術館を出て、京都市京セラ美術館へと向かう。すぐ向かいにある。
こちらも、コレクションルームだけを見た。
コレクションルームは、部屋ごとにテーマが決まっていて、私が訪れたときは「月を愛でる」、「自然を捉える」、「身体、装飾、ユーモラス」というテーマがそれぞれ設定されていた。
美術館の所蔵作品を展示する場合、作品を時代順に並べることが多い。
けれど、この京セラ美術館や、この京都旅行の前々日に訪れた東京国立近代美術館では、すべての部屋にテーマを設定していた。
テーマが設定されていると、作品を楽しみやすいように感じる。
ただ時代順に展示されているよりも、同じテーマで集められていることで、画家がどんな切り口で描いているのかに注目できる。その反面、作品を展示する側のメッセージ性が強くなり、作品が挿絵的になってしまう可能性もあるから、あまり説明的になりすぎないように留意すべきだろうけれど。
秋ということで、京セラ美術館では「月を愛でる」というテーマを設定し、空想の月世界や月のある風景を描いた風雅な絵画を展示していた。
そういえば、東京国立近代美術館でも「stargazers 星をみつめるもの」というテーマが設定された部屋があった。そこでは、大正期の夭折の画家たちや、大地や太陽を主題とした絵画を扱っていた。
似たようなテーマであっても、展示されている作品は全く異なる。
絵画をとおして眺める月や星は、夜空を眺めるのと同じくらい、もしかしたらそれ以上に深遠さを感じられるかもしれない。
おなかぺこりん、のちお好み焼き
一人でいると、食べることも忘れて、見ることに没頭してしまう。
気づけば、お腹がぺこぺこだった。
ちなみに、私の夫はお腹が空きすぎると「おなかぺこりんだよ」と言っていたことがある。この発言から、私はnoteで夫をぺこりんと呼んでいる。
ぺこりんがなかなか帰って来ないので、私のお腹がぺこりん状態になりかけたところ、ようやくぺこりんが仕事から戻ってきた。
ぺこりんが上司に教えてもらったという、トマトお好み焼きがおいしいというお店へ向かう。
アボカド焼きそばと、トマトお好み焼きを注文した。
正直なところ、あまり期待していなかったけれど(映えっぽいメニューかなぁと)、とてもおいしかった。特に、アボカド焼きそばが、おいしかった。とろろをふんわりまとった和風の味付けで、さっぱりとするすると食べられる。
久しぶりの夜散歩
久しぶりに出歩く夜の街。
ただ歩いているだけなのに、夜というだけで、なんだか心躍る。
隣では、ぺこりんが、「楽しすぎる!」と言って、ぴょこぴょこしていた。
ぺこりんのいいなと思うところの一つは、こんなふうに素直にきもちを表現してくれるところ。
楽しすぎる!とはしゃいでいるぺこりんは、ただただ可愛らしかった。
今回の旅では、2泊ともhotel tou nishinotoin kyotoに宿泊した。
京都駅からも近く、こじんまりしていながら、スタイリッシュで居心地のいいホテル。
朝ラーメン
さて、2日目。
朝ごはんは、駅の近くのラーメン屋さん第一旭へ。
キタナシュランに出られそうな店構え。
並んでいる間に注文がとられ、並び始めてから15分くらいで入店。
カウンター席に案内される。
カウンターに案内されるとき、たいてい「カウンターでもよろしいですか?」と申し訳なさそうに聞かれるけど、私はカウンター席が大好き。
つくっている様子を間近で見られることに、いくつになっても、わくわくしてしまうのだ。
厨房ではもくもくと湯気の立ち込める中で、店員さんたちがきびきびと一切無駄のない動きでラーメンをつくりつづけていた。
朝からラーメンなんて重すぎるかな、食べきれるだろうかと思っていたけれど、心配不要だった。
しゃきしゃきのネギときりっとした醤油のスープが、細麺ストレートとよく絡む。チャーシューは、イマドキのやわらかく煮こんだものではなく、昔ながらのしっかりとした味付けの噛み応えのあるタイプ。
それなりに脂っこさもあるし、塩気もスープの香りも強めだけど、ついつい箸がすすむ。
あっという間に完食。普通盛にしたけれど、もっと食べられたような気もした。
自転車と京都の街
朝ごはんを食べ終えてから、自転車を借りた。
前日の美術館までの行き帰りで、道路が渋滞していて、バスもタクシーも動けなくなるところを何度か目にした。地下鉄も地図を見る限り、使い勝手があまりよくなさそう。
美しい街に車が溢れている光景は、ヨーロッパの旧市街でも見てきたけれど、簡単に街並みを壊せない古い都市ならではの課題なのかな。
私の地元の仙台は、空襲で灰の街になって戦後の都市計画でつくられた街だから、中心部でもこれほど密集していない。
京都の街は、少し息苦しいような気もした。
でも、歴史を肌で感じられるのは、やっぱり羨ましいけれど。
京都に住む人は、どうやってこの街を移動しているのかなと思っていると、地元の方と思われる人たちはびゅんびゅんと自転車で移動している。
私たちは、普段自分たちの住む町でも自転車で移動しているから、自転車に乗り慣れている。私たちも京都人になりきって、自転車を借りることにした。
北野天満宮
まずは、自転車でびゅびゅんと北野天満宮へ。
学問の神様・菅原道真公に、無事に修士論文を書き終えられた御礼と、これからも学び続ける意思を伝える。
ここには、高校生の修学旅行でも来たことがある。
そのときは、大学合格の祈願をしたのだった。
小学生の修学旅行で訪れた街を、数年後に訪れたとき、街全体が少し色褪せたように感じたことがある。でも、初めて訪れてから10年以上経っても、京都は色褪せているようには感じなかった。それは、京都という街が何年たっても人の行き来の絶えない場所であるからもあるけれど、きっと隣にいるぺこりんの存在も大きいのだと思う。
修学旅行で一緒に街を歩いたグループのメンバーたちとの思い出もすごくキラキラしている。でも、その思い出にも負けないくらい今もしあわせだなと思うのだ。
とろけるチーズケーキ
次にびゅびゅんと向かったのは、スイーツのお店「kew kyoto」。
スイーツが大好きなぺこりんのために、私がピックアップしておいたお店。雑誌に取り上げられていたお店の中でも、ひときわおいしそうなお店だった。
予約をせずに訪れてしまった私たちだが、テラス席でよければ…と案内してもらう。
テラス席は、お店の角にあって、通行人からの視線が実に気になる席。
まるでお店の看板になったような気分を味わえる。
これから訪れる方には、予約することを強くおすすめする。
ぺこりんが葡萄のタルト、私がチーズケーキを注文した。
チーズケーキは、形が保てないから、注文してから切り分ける。
たしかにフォークをいれると崩れてしまうほど、やわらかい。
カスタードクリームのような、それでいてチーズの風味はしっかりとしていて、思わずにんまりしてしまうおいしさ。
ぺこりんは、ケーキがおいしすぎるのか、いつもはヘラヘラしているのに、黙々と食べていた。私がカニを食べるときのように、真剣な面持ちだ。
ぺこりんはケーキを食べ終えると、「食べ終わっちゃった…」と悲しそうにしていた。
旅は道連れ
次に、びゅびゅんと向かったのは、河井寛次郎記念館、高台寺、産寧坂。
河井寛次郎記念館と高台寺は私が行きたかった場所、産寧坂はぺこりんが行きたいと言っていた場所だ。
産寧坂は、清水寺へとつづく、お土産屋さんや飲食店の並ぶ人気の観光地で、お祭りの縁日のような愉しげな雰囲気に満ちている。たぶん誰が行っても楽しめる場所。
一方で、私が選んだ、河井寛次郎記念館と高台寺は、好きな人はすごく好きだろうけれど、はたしてぺこりんは一緒に行って楽しめるだろうかと少し懸念していた。
でも、ぺこりんは、そのどちらの場所もとても気に入っていた。
「一人だったら、たぶん来ようと思わなかったけど。すごくいいところだ」と言っていた。
私は、それがすごくうれしかった。
共通する感覚をもっていることがうれしいというよりも、二人でいることで、それぞれの関心や興味が広がっているのが、うれしい。
つい先程、産寧坂は誰が行っても楽しめると書いたが、たぶん私一人だったら産寧坂のような人のたくさんいるところには行かない。ぺこりんが行きたいというから行ってみた。そしたら、思いのほか楽しかった。
河井寛次郎記念館で、とある老夫婦と少し話をした。
「いつかここに来たいと思っていたの。でも、京都には見るところがたくさんあって、つい後回しになっちゃって。憧れの場所に、やっと来ることができた。もっと私たちも若いときに来ればよかったんだけど。」と彼らは言っていた。
私は、若いうちに来られたことを、少し誇らしく思った。
だけど、憧れの場所をもちつづけていた老夫婦もまたステキだと思った。
高台寺天満宮で、私たちは二人ともおみくじを引いたら、二人とも大吉だった。
高台寺を出た私たちは、産寧坂を歩いて、おだんごや湯葉クリームコロッケをつまむ。
職人技を堪能した夜
自転車を返却したあと、ホテルへ戻り少し休む。
1日中びゅんびゅんと歩き回っていたから、ホテルからすぐ近くのお店でごはんを食べることにした。
「人の味 舌の味 ふくざわ」というお店に入った。
なんだかちょっと怖い店名だが(ミルキーはママの味的な怖さ)、ちゃんとしたお店だった。
二人ともコースを頼む。
総じて、美味しかった。
特に天ぷらの揚げ加減が絶妙で、家では真似できないなと思った。
家で再現できそうな味に出会うとレパートリーが増えてわくわくするし、これは真似られそうにないぞという職人技を堪能できるのもうれしい。
焼き魚は、鰆の西京焼きだったけど、鰆は私がソテーにしたほうがおいしいと思った。味付けの好みの問題。
野菜と穴子の天ぷらを追加で頼む。この穴子天がおいしくて、追加で注文した私を褒めたい。肉厚の穴子がぷりっぷりで。お魚にはかなりうるさい私も大満足のおいしさ。
〆に出汁巻きを注文。味つけも、ふんわりとした焼き加減も、すばらしくて、職人技だな~とほれぼれする。あまりにもおいしかったから、もう一度食べたくて家に帰ってきてから再現しようと格闘している。
朝から551
いよいよ、最終日。
朝から551を食べる。ちまきとシュウマイと肉まんを食べた。ちまきが特に美味しかった。
そろそろ、読者の方たちも、こいつらの腹はいったいどうなってるんだと気になりはじめたことだろう。
私もこの記事を書きながら、いくらなんでも食べ過ぎだろうと思っている。
縁結び
竹林を吹き抜ける微風をうけて、絵馬がカランカランと音を立てながら揺れている。
音に誘われ目を遣ると、絵馬には「いい人と出会えますように」、「ステキな人と結婚できますように」といった願いがしたためられていた。
恋にまつわる願いが多いのは、そこが縁結びで知られる神社だったから。
「今度は自分に優しくしてくれる人とつきあえますように」
という願い事を書いた人は、いったいどんな恋をしてきたのだろう。
私も、かつて、ステキな人に出会えることを夢見ていた。
でも、「こんな人がいいな」と思い描いているうちは、恋とは無縁だった。
「この人がいい」と思ったときに、たぶん恋がはじまったのだと思う。
私の隣にいる人は、かつて思い描いていた人とは随分とちがうような気がするけれど、やっぱりこの人でよかったと思う。
福田美術館
神社で参拝後は、渡月橋の近くの福田美術館へ。
福田美術館の周辺は、アラビカ(珈琲店)やMUNI KYOTO(ホテル)などが建ち並ぶお洒落なエリア。
桂川と渡月橋を目の前にした景観が美しい。
しかし、この美術館周辺から、川沿いを東に向かって歩いていくと、途中からはごく普通の景色になる。
川の美しさは変わりないけれど、その周りの建物によって、美しくも見えるし、ありふれた景色にも見える。
もっと言うと、建物があるからこそ自然がきれいに見えることもあるような。
福田美術館では展覧会「芭蕉と蕪村と若冲」が開催されていた。
《野ざらし紀行図巻》という芭蕉直筆とされる図巻の展示がこの展覧会の目玉。
図巻のそれぞれの句には、番号が振られ、図巻と並行するパネルでその意味が解説されている。こういう丁寧な解説があると、みんながこの作品の面白さを感じられていいなぁと思う。
霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き
私はこの句が気に入った。
霧時雨で富士山が見えないけど、こういう日こそ面白いなぁという句。
富士山が見えなくて、ああ残念、じゃなくて、見えないことを面白がっているのがいい。
こういうことをサラッと言えるようになったら、きっと面白く生きられるだろうなぁと思う。
上手くいかないことがあったとき、不安になってしまいそうなとき、この芭蕉の句を唱えてみたい。
さて、のらりくらり京都旅も、これにておしまい。
その土地でしか見られないものや、食べられないものに出会うのももちろん面白いけれど、そこでしかできない考えをするのもまた旅の醍醐味だと思う。