音のないふたり
「そのネックレス」と同僚がふと切り出したので顔を上げた。
二画面あるパソコンには数字がずらりと並んでいる。その向こうの同僚とぱちりと目が合うと、彼女は薄い笑みを浮かべてとんとんと自身の首元を指したように見えた。
「かわいいね。新しい?」
「はい。よく気付きましたね」
「なあに。彼氏から?」
「いえ。ボーナスも出たし、自分で」
「なるほど」
彼女に薄っすらと笑顔を返し、ペンダントトップを触る。
彼と先週お別れをした。
しばらく付き合っていったんすれ違いで別れたものの、関係を切ることをずるずると先延ばしていた彼だ。
わたしは当然のように彼が好きだったし、彼の行動の節々に同じ気持ちを感じていたけれど、どうやらこちらの勘違いだったらしい。
二度目のお別れは、一度目のように目が腫れるまで泣くことはなかったけれど、ぽっかりと心に穴が空くには違いなく、そこから漏れるようにやはり涙は自然と溢れた。
揺れる三日月を鎖骨の真ん中に戻しながら、また目を伏せた。
「はっきりさせてほしい」
目を見れないままにそれだけ言うと、彼は何を?ときょとんとした。
「ええと、この関係性というか」
目を泳がせるわたしに、面食らったような彼は少しわざとらしく笑ってから、「友達だと思ってるよ」と言った。
「うん」
「逆にどうしたいの?」
「あなたいつもそればっかりだよ」
「友達、じゃ、駄目?」
「ううん」
首を横に振りながら、そこで笑えたことだけは自分を褒めたい。
隣り合わせに止めた車に乗り込む。
不思議と涙は出なかったので、落ち着いた振りをして音楽を再生しようとしたところで、隣からクラクションが鳴る。
いつも出発する際に手を振って別れていたのに、忘れていたことに気付く。
いつもより口角を上げて振られた手。
ぎこちない笑顔で手を振り返しながら、大好きだったその手に触れることはもう二度とないのだなと思った。
悲しい。痛い。
覚えのある感情より、虚しさと切なさが勝った。
交際を始めるときも別れた直後も、彼は「どうしたい?」と聞いてきた。
彼はあまり自分に自信のある人ではなかった。
身長も高く、仕事も家事も出来るし、友達もそこそこ多い、顔も別に悪くない、それなのにどこに自信を落として来たのだろうと思うほど。
家庭や今までの女性遍歴は確かに順風満帆でも幸せなものでもないようだったので、そういった積み重ねなのかも知れない。何より、バツのついた戸籍に一番コンプレックスを抱えていることを知ってはいた。
そういった諸々の事情からか、過度に気を使いがちな性格も相まって、あまり大きな決断をしたがらない人ではあったように思う。
ぼんやりと穴を抱えて夜を過ごすうち、どうしたい?と聞かれて明確な答えを返したことがなかったことに気付いた。
もともと自分の感情を出力するのは苦手だったけれど、それだけでなく、できれば彼から言ってほしいという感情ばかり先行させていた。
表に出ることのなかったものたちを今更彼に伝えることは、不可能ではないけれど何の意味も為さない。
全て任せてごめん。
わたしだってわたしを主語にすることが苦手なのに、強要しようとしてごめん。
いつだって言えなかった言わなかったけど、わたしはきみと一緒にいると楽しくて、ずっと一緒にいたくて、触れ合う権利が欲しくて、ただそれだけだった。
何も伝えられなくてごめん。
彼の優しい手つきを思い出す。
ふわりと細められた目、刻まれた目尻の笑い皺を思い出す。
彼らしくもない「ありがとう」を思い出す。
自分が彼を愛した軌跡なんかより、彼に愛された瞬間を思い出す方が涙が滲んだ。
さようならはどちらも言わなかったけれど、もう会えないことは明確だった。だってわたしがそう望んだから。
今でも一緒にいたいと思うし、泣いて縋りたい気持ちもある。
だけど、わたしたちは運命ではなかった。
彼を愛しく思う気持ちよりも、自分を守る方が大切で、それにどこかで気付いている以上、わたしに終わらせる以外の選択肢は生まれない。
それでも、もしかしたら今日連絡が来るかも、一年後にゆっくり話せる機会があるかも、まだわたしはそんなことを考えている。
「占いにでも行きませんか」
同僚はきょとんとしてこちらの様子を伺った。
「いいね。よく当たるところ知ってる」
「連れて行ってください」
何も詮索することなく、彼女はもちろん、と微笑んだ。