今日も生きたな
前職で私は「ぐるんとびー」という団地の一室にある、小規模多機能居宅介護施設に勤めていた。「勤める」という言葉が正しいのか、じーちゃんばーちゃん、職員と「共に暮らしていた」の方がしっくりくるような。
この職場のことについて書くとそれだけで長くなってしまう。
そんなぐるんとびーにいたころ、6月は、季節の変わり目だからか、急に暑くなるからか、じーちゃんばーちゃんが、旅経つことが多い月でもあった。
「もう長くないかも」
つい先日、1人のばーちゃんのことでぐるんとびーの職員が連絡をくれた。
ぐるんとびーと同じ団地に住んでいた私は、6年間そのばーちゃんとご近所であり、ぐるんとびーで共に過ごした。本当の家族があまり良い関係ではないから私にとっては家族のような存在だった。
連絡をくれてすぐ会いに行った。
数か月前とはだいぶ見た目は違い、痩せていた。
それでも相変わらず饒舌は健在だった。
なかなかの精神疾患に認知症が相まって不安な気持ちや色んな感情が
暴力や罵声という何ともエネルギッシュな表出をするばーちゃんだった。
だけれども、ほかのばーちゃんがフラダンスを踊れば「それそれ!」と掛け声をかけて手拍子までして盛り上げ、お客さんが来れば、冗談を言いながら場を楽しませてくれた。
「生きんのって疲れんだよ」
喜怒哀楽すべてを全力で表出するばーちゃんの言葉はとても重みがあった。
夕焼け空を眺めながら
「今日も生きたな」
ってばーちゃんに言われて普通に生きているだけで、凄いことなんだということを身をもって学んだ。
約1週間前、久々に明るい時間に仕事を終え、夕焼けを眺めながら、「今日も生きたな」とばーちゃんと見ていた頃を思い出していた。
その翌日、ばーちゃんが旅立ったと連絡が来た。
私がインクを足したり、
半紙で吸ったりしながら、
絵を描けば、それを眺めて
「人の付き合いもそんなもんだよなあ。
くっついたり離れたり。
この絵もそうだけど正解なんてないだろ。
インクが勝手に滲むように
自分の意と反することもあるし」
そんなことをさらっと言ってのける。
いろんな場面で名言が出るばあちゃんだった。
ある人が
人の死はね。
個体として消えてしまう死と
人の記憶から消えてしまう死と
2つの死があるんだよ
そんなことを言っていた。
このばーちゃんからもらった学びは
ずっと私の中で生き続けると思う。
お疲れ様でした。
読んでいただいて、ありがとうございます。 自分のために書いた文章が 誰かの心にも何か残ったら嬉しいです。