ポップコーンの音が暴く無関心―映画レビュー『関心領域』
映画館で映画を観るとき、他の観客がポップコーンを食べる音が気になることはありませんか?
映画のクライマックスで集中しているときに、誰かがポップコーンを取り出す音や咀嚼する音が耳に入ってくると、一瞬のうちに気が散ることがあります。些細な音なのに、映画に集中しようとする私たちの「関心」のありかを揺さぶる雑音です。
ジョナサン・グレイザー監督の『関心領域』を観ているとき、こうした日常の映画体験の一部が巧みに映画に取り込まれてしまっていることに気づきます。
アウシュビッツ強制収容所の隣に住む家族の日常を描きながら、「音」を駆使して人びとの中に潜む「無関心」を暴き出す映画表現の中に、ポップコーンの音も「引用」され、痛切な効果を引き起こすのです。
※以下、映画の具体的な内容に触れています。ネタバレを含みますのでご注意ください。
音響が生み出す恐怖と無関心
『関心領域』の最大の特徴は、暴力や殺戮のシーンを一切見せずに、音響だけで観客に恐怖を伝える点です。
『関心領域』では、映画館の前後左右から響くさまざまな音が重要な役割を果たします。
小鳥のさえずり、子どもの笑い声、赤ん坊の鳴き声、車のエンジン音、蒸気機関車の音、銃声、低く響き続ける焼却炉の音、叫び声、喚き声、誰かを指図する乱暴な声、ベッドサイドで交わされる夫婦のささやき声、軍靴の音、川が流れる音、プールの水しぶきの音・・・などなど。
これらの音が観客の意識を巧みに操作し、日常の裏に潜む恐怖を浮き彫りにします。
見えている平和な風景とそこに響く日常的な「音」の中に、見えていない大量虐殺の現場とそこから漏れてくる「音」が共存しているのです。
さらに私は、スクリーンのこちら側の世界に響くポップコーンの音が、スクリーンのあちら側の映画の音と「共存」し、スクリーンの世界と観客の現実との間に強烈な意味を発生させていることに気づきました。
ポップコーンの音に潜むメッセージ
他の観客がポップコーンを食べる音は、ただの雑音ではありません。
それは、映画のテーマと深く結びついた強烈な意味を否応なく持ってしまいます。
アウシュビッツの悲劇が描かれるスクリーンの前で映画を観るという安穏な日常の中にいることを、ポップコーンを食べる音は私たちに突きつけます。
ポップコーンの音は、私たちの「無関心」を象徴してしまうわけです。
映画のラストに込められた現代への警鐘
映画のラストシーンに、現代の国立アウシュビッツ=ビルケナウ博物館の映像が映し出されます。
決まり切った作業を黙々とこなす職員たちは、虐殺の記憶を濃厚に残す展示物に対して「無関心」であるかのように見えます。
彼らの関心領域は、床やガラスをきれいにすることであり、その面倒な作業を早く終わらせることかもしれません。
このシーンは、私たちが過酷な現実を背景化し、無関心になってしまいがちな存在であることを強く示唆しています。
私たちの「いま」に向き合う
『関心領域』が問いかけるのは、私たち自身の無関心です。ウクライナやガザ地区の悲鳴が背景音のように意識されなくなりつつある現代社会において、私たちはどれだけその現実に関心を持てるのか。この映画を観ることで、自分自身の無関心を見つめ直し、積極的に世界の問題に目を向ける必要性を感じさせられます。
ジョナサン・グレイザー監督の『関心領域』は、観客の無意識に働きかけ、現代社会の無関心さを鋭く問いかける作品です。
私たちが日常の中で見過ごしてしまう「背景音」に意識を向けること、世界の現実に対する私たちの「関心領域」を問い直すことをこの映画は求めています。
そして、この映画は私にとって、サバイバーズ・ギルトやテレヴァイスド・カタストロフ、ぼんやりとした後ろめたさなど、これまでに考えできた問題系と、〈いま・ここ〉で交錯するという点においてきわめて興味深い映画でした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?