「人間にしか出来ない教育」とは何か?
交換不可能な"この私"という固有性を持った児童の「個」や生徒の「個」と先生の「個」の接点にある固有性にこそ、「人間にしか出来ない教育」の本質があると私は考えています。
現在、ChatGPTは世界中で様々な形で利用されています。でも「ChatGPTが奴隷のように過酷に使われていて可哀想だ」と心配する声はほとんどありません。
なぜなら、ChatGPTは私たち人間のような個別の存在、"この私"のような固有性を持っていないからです。つまり、肉体を持つ私たちのように"いま・ここ"に束縛されている存在ではないのです。
にもかかわらず、ディスプレイ上での対話を重ねるうちにChatGPTに人格のようなものを感じ、親近感や依存心を持つ人がいるのは事実です。
これは、ユーザーの側の"この私"の固有性がChatGPTに投影され、人間的な絆のようなものを感じさせる現象なのでしょう。
たとえば新聞記事においても、"中立性・公平性・公正性"という原則に忠実であればあるほど、ChatGPTなどの生成系AIが書いた記事と識別がつかなくなっていくはずです。
しかし、記事が一個人、つまり交換不可能な"この私"としての記者から生み出されるなら、そこにはChatGPTには再現できない人間特有の感情や体験が潜んでいるはずです。
私たちが肉体を持つ"この私"として、"いま・ここ"の教室という限定された時空の中に存在し、同じく肉体を持つ固有の生徒たちと対話します。
こうした経験を日々積み重ねることで生まれる交換不可能な記憶を、生徒たちとともに作り出す過程の中にこそ、「人間にしかできない教育」があるはずだと私は信じています。
未
※必要があって書き留めた雑駁な文章をChatGPTに清書してもらい、"この私"が部分的に加筆修正した。