「テルーの唄」と「銀河鉄道999」とフラダンスの著作権
盗作と創作―テルーの唄と萩原朔太郎
「そんな雑誌があったんですね」と言われそうだが、かつて『諸君!』というオピニオン雑誌が存在した。
その2006年11月号で、ジブリ映画『ゲド戦記』の主題歌を作詞した宮崎吾朗が、詩人荒川洋治によって厳しく批判されたことがある。
手嶌葵が歌った主題歌「テルーの唄」の歌詞が、萩原朔太郎の「こころ」という詩に酷似しているというのだ。
具体的には、「心を何にたとえよう」とか「音も途絶えた風の中」などの「テルーの唄」に出てくるフレーズが、「こころをば なにに たとへん」とか「音なき音のあゆむひびきに」という萩原朔太郎の詩句に似ているという指摘である。
荒川洋治は、「道行くふたりという人物設定、状況、空気、語調は、たいへんにている。順序は前後するものの、構成もにている」と言っていた。
ただし、萩原朔太郎の「こころ」に着想を得て書かれたことは、スタジオジブリやYAMAHAの公式ページにも明示されている。状況設定や言葉づかいが似ているだけであれば、「本歌取り」のようなもので、目くじらを立てるほどのものではないと言えるのかもしれない。
当時、日本文芸家協会で会長を務めていた三田誠広も、「盗作とは言えない」と明言していた。
問題をフレームアップした荒川洋治の中には、苛立ちのような感情の起伏が感じられるのだが、それはおそらく、「テルーの唄」がこれだけ売れているのに、CDを買った人やカラオケで歌う人が萩原朔太郎の「こころ」を知らないということに由来している。
本歌取りの場合は、もとの歌がよく知られているもので、作られた新しい歌を享受する人がもとの歌を知っていることが前提になっている。
ところが、萩原朔太郎の「こころ」は、「テルーの唄」を聴く21世紀の日本人にとって、当然の前提ではない。「テルーの唄」に聴き入る人々の大半は、萩原朔太郎の「こころ」のことをまったく知らないのだ。現代詩人の荒川洋治の苛立ちの源は、おそらくそのあたりにある。
銀河鉄道999と槇原敬之
漫画家の松本零士がミュージシャン槇原敬之を「盗作」で訴えたことがある。
こちらは未だに発行が続けられている週刊『女性セブン』の2006年10月19日号の記事が発端である。槇原敬之が作曲した「約束の場所」の歌詞が、松本零士の原作の人気アニメ『銀河鉄道999』の名セリフにそっくりで、「盗作」だと言うのだ。
やり玉に挙げられているのは、「夢は時間を裏切らない 時間も夢を決して裏切らない」というサビの部分の歌詞である。
『銀河鉄道999』(小学館刊)の第21巻には、「時間は夢を裏切らない 夢も時間を裏切ってはならない」というセリフがあり、この部分の「盗作」にあたるというのが松本零士の主張だ。
しかしこんなことを言い出したら、そもそも「銀河鉄道999」というタイトルは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の「盗作」であるということなるし、加藤典洋の「日本の無思想」は丸山真男の「日本の思想」の盗作であり、尾崎豊の「17歳の地図」は中上健次の「19歳の地図」の盗作であるという話になりかねない。
松本零士の告発の背後にも、苛立ちのような感情の起伏があると感じられる。
松本零士の苛立ちも、「銀河鉄道999」という作品をないがしろにしていること、まるでそんな作品が存在していないかのように槇原敬之がつくった歌を聴く人がいること、世の中が自分の作品を十分にリスペクトしていないと感じられること。そういう現実に対する苛立ちが、抗議の背後に感じられる。
サンプリングとか,引用とか,もじりとか,パスティーシュとか,オマージュとか,カリカチュアとか,このような類のものは,少なくとも,「盗作=作品を盗んだ」とは言えないと思います。
もちろん、『銀河鉄道999』なんか読んだこともないと言って開き直っているらしい槇原サイドにも問題があるが、松本零士ほどの漫画家がこれしきのことで目くじらを立てざるを得ないという状況に、当時の私は一抹の寂しさを感じた。
つまり、槇原敬之の曲を聴く人にとって、松本零士の漫画の名セリフが、必ずしも自明の前提になっていないということが、この騒動を引き起こしていたのではないかという気がするのだ。
「おわら風の盆」事件
「おわら風の盆」の本家本元の富山市八尾町が、2年前から東京の墨田区が開催している「おわら風の盆in向島」に「待った」をかけたというニュースが伝えられた。これも2006年のことだ。
1月に騒動になったものの10月に予定通り開催されたため、八尾町観光協会が「風の盆」の名称を使用したことについて向島の主催者側に抗議し、話は少しばかりこじれることとなった。
阿波踊りやよさこい踊りみたいに、「風の盆」も全国各地で愛される踊りになった方がいいという考え方もできるはずだが、当時の八尾町は「風の盆は、踊りや民謡だけでなく町が一体となって演出するもの」であり、「踊りだけを披露しても、本来の姿は伝わらない」と考えていた。
フラダンスと著作権
フォークロア(民間伝承,民族文化財)に著作権を認めるかどうかが世界知的所有権機関で議論されたのは、2004年6月のことだ。「フラダンスに『著作権』?」という記事が、翌年5月の朝日新聞の文化欄に掲載された。
フラダンスに著作権を認めるなどというようなのは、まったく馬鹿馬鹿しい話だと当時は考えていたが、その後、2018年に大阪地裁で「フラダンスの振付」に著作権を認めるという判決が出ている。詳細を承知していないが、いったいフラダンスの振付のどこからどこまでについて、どういう著作権が誰にあるというのか、報道された内容を読むだけでは、にわかには理解し難い話である。
一方で、阿波踊りで盛り上がっている阿佐ヶ谷商店街やサンバ・カーニバルに沸き立つ浅草が、徳島県やブラジル政府から訴訟を起こされるようなことは起きていないわけで、著作権とはいったい何かという根源的な疑問が浮かんでくる。
その際に、カギとなるのはおそらく著作権法第一条の以下の文言である。
「もつて文化の発展に寄与することを目的とする。」である。著作権法にふりまわされて、結果的に文化の発展が阻害されては元も子もない。
では、どうするか。
では、ChatGPTにいかに向き合うか。
ChatGTP を使い倒すか、無視するか。それが問題だ。
未
2006-10-22「『テルーの唄』と『銀河鉄道999』とフラダンスの著作権」による