並行世界とサバイバーズ・ギルト
サバイバーズ・ギルトをめぐって
サバイバーズ・ギルトとは、生き残ったものが感じる罪の意識、負い目のことです。
身近な人間が自殺して亡くなったときに、「どうして気づいてあげられなかったのだろう? 助けてあげられなかったのだろう?」などという罪悪感を感じる場合が典型的です。
大きな災害や事故に遭遇した者が、生き残ったという事実を肯定的に受け止められず、「どうして自分だけが助かってしまったのか?」といういわれなき罪の意識を抱いてしまうのも、サバイバーズ・ギルトだと言えます。1995年の阪神淡路大震災や2005年のJR福知山線脱線事故の際など、大きな災害や事故があるたびに、サバイバーズ・ギルトと見なせる負の感情に苦しめられる人たちが生まれます。
そもそも私がサバイバーズ・ギルトに関心を寄せたのは、戦後50年にあたる1995年を意識して戦後文学について考えていたことがきっかけでした。
読み漁っていたさまざまな書籍の中に、野田正彰さんの『戦争と罪責』(1998年・岩波書店)があり、その中にあった「生き残りの罪障感」という言葉を目にしたことが決定打でした。
拙著『横光利一と敗戦後文学』(2005年・笠間書院)の第3部「敗戦後文学論」に収められた一連の論考は、生き残りの罪障感を抱えた人たちの文学として戦後文学を読み直したものです。
筑摩書房のウェブサイトに連載した「定番教材の誕生」においても、サバイバーズ・ギルトが重要な論点になっています
ただ、拙著が刊行された2005年春の段階では、サバイバーズ・ギルトという言葉はWikipediaにすら収録されていませんでした。
「定番教材の誕生」を連載していた2006年から2008年ぐらいにも,一般的にはあまり使われていない言葉でした。
私の実感では,福知山線脱線事故あたりから少しずつ注目度が高まってきたものの、2011年3月の東日本大震災の後になってようやく、広範な人たちに認知されたのではないかと思われます。
そして、東日本大震災の後に生み出されたさまざまなカルチャーを見ながら否応なく気付かされるのは、サバイバーズ・ギルト(生き残りの罪障感)とパラレル・ワールド(並行世界)の問題が密接に関わっているということです。
なぜ並行世界が描かれるのか?
なぜ並行世界を描いた作品が多いのかということについて、昭和文学会で講演をした高橋源一郎さんは、そもそも自分たちの生きている世界がパラレル・ワールド化しているからだと言っていました。
2016年を宇多田ヒカルの「花束を君に」のメロディーに彩られた「とと姉ちゃん」の年として記憶する人もいるでしょうけれど、テレビもラジオもまったく見ずに「プレステVR」に明け暮れた年として記憶する人もいるかもしれません。
両者の生きた2016年はよく似ているけれど、根本的に相容れない並行世界です。
現代小説やアニメ、映画などで並行世界が好んで描かれているのは、こうした現実の反映だというわけです。
でも、どうやらそれだけではなさそうです。
2008年に刊行された『村上春樹と一九八〇年代』の中で新海誠を取り上げた千田洋幸は、2013年に出された『ポップカルチャーの思想圏』の中で可能世界や偶有性について論じています。
読んでいて思ったのは、生き残りの罪障感を抱えながら震災後(敗戦後でもいいのかもしれませんが)を生きる人びとにとっての毎日は、「~たら」「…れば」を延々と繰り返しながらいつでもどこでもあり得べき別の世界へと滑落してしまうようなものであり、たとえば震災が起こらなかった世界と震災が起きてしまった世界という2つの世界を往還しながら生きているようなものなのだろうということでした。
端的に言えば、並行世界が繰り返し描かれているのは、その源泉にサバイバーズ・ギルトがあるからなのかもしれないと思うわけです。
未
※2017-03-04「そもそも…端的に言えば―並行世界とサバイバーズ・ギルト(1)」をリライト