#4 誰もいない味
十年前に別れた妻はもうどこにいるかもわからない。
昔、好きだった女の子が言った。
「明日、引っ越すの」
突然言ってきたその表情は真っ白で、俺のことなんて見ていなかった。
妻との無言の別れ。無表情。涙こそ流れず、しかしそれほどに残酷な現実だった。
こずえちゃんが自分のロックグラスを両手で包むように持ち、それを見つめて呟くように言った。
「音楽を辞める」
白は白でも、周りは黒になり、ゆっくりとしたモノクロの様な空気が漂い、俺は何と言い出したらベストなのか分からず、動揺を隠せない。短い沈黙。
こずえちゃんは、ふうとため息ではない、大きな息を吐いた。
「音楽は大好きだけど、好きだけじゃ通じない事は沢山ある。勿論、それを突き詰めて遅咲きする人達もいるけど、私にはあと何十年もこのまま挑戦していく事より、違う形で音楽を愛していけばいいんじゃないかって。予選が終わってから、負けた悔しさよりも不思議なくらい心が落ち着いてるって分かった事が何故だか嬉しくなっちゃって。初めて『音楽』を違う方向から好きになれるんじゃないかって思ったの」
俺は焼酎の味なんて分からず、蓮太も気が動転して何て言ったらいいか分かってない。自分たちだけが時間を止められたかの様に呼吸をするのも忘れて聞いていた。
黒胡椒で味付けしたチキンと、アボカドにマスタード(多目)を添えて、数種類の野菜と共に自家製のパン生地で一緒に巻いた、当店名物チキンラップが目の前に現れた。
内川店長、通称うっちゃんもきっと、全て聞いていただろう。美味しそうなチキンの香りが店内を満たし始める。
「今日から『ブラン・ニュー・コズエ』て事だな。チキン、一個増やしといたよ」
うっちゃんがそれだけ言うと、こずえちゃんは透き通った美しい笑顔をはにかんで見せた。
可愛い。うっちゃん、完璧だ。
「一昨日、久しぶりにマリから電話が来たの。ほら、ここにも何度か一緒に来てる」
こずえちゃんが知り合いを連れてきたのは一回だけ見た事がある。マリさんの髪の毛はこずえちゃんよりもかなり長く、背中の腰辺りまである。いつもムラサキ蘭の様な、花のかんざしをお洒落に使い髪の毛をまとめているのが印象的だった。
「何かあったのかしらと思ってびっくりしたんだけど、話を聞いてみたらなんと、うちの近くにお店出すんだって。彼女が大好きなお花屋さんをね」
マリさんがお花屋さんなんて、全く違和感が無い。ハマりすぎている。どこにあっても、道行く人々がそのお店が気になって仕方なくなる様なイメージがすぐに湧いた。
「良いねえ、お花屋さいこー!すぐに行くでえ」
酔いが回って変な言い方になった。
「堀田さんは行かないで良いです。すぐセクハラするから!」
蓮太がやっと、突っ込んできた。少しこずえちゃんが微笑んだ。
「良かったら一緒に働こうよって誘われたの。私もお花が好きだけど、正直戸惑ったわ。何よりマリとこれから一緒に働いていけるなんて、考えてもなかった夢のような話だったから。『音楽バンバンなお花屋さん』になるわよ、って言ったら、それがいいのよって。もう、彼女にはいつもリードされちゃう」
そう微笑むこずえちゃんの目は、もう迷ってなどいなかった。
可愛いかった。
モノクロの世界に、まだ何色かも分からないくらい小さく、そして点々と、素敵な新しい色が塗られていく様な空気が店内をゆっくりと満たしていく。
体内にいつもまとわりつく酒の匂いと加齢臭、おじさん臭は、少し浄化された気がする。
心の老廃物とでも言おうか、それは今日は全く違う形で俺の心をじんわりと満たす経験となるみたいだ。
浄化する事で、至福を得ていた事とは異なり、インプットもアウトプットも関係ない。
楽しくその後も飲んだ。
飲み過ぎた。
おれが焼酎を選ぶのは、良い蒸留酒は二日酔いになりにくいと言われるのをテレビで見たからだ。味なんて、何でも良い。
しかし、絶対に明日は二日酔いになると分かった。
誰もいない家。
帰宅したのは深夜一時過ぎ、酩酊した頭の中に寂しさの様なものではなく「感謝」という気持ちだけが素直に浮かんできた。
これは酔いか。
まあ、酔いでも、構わんか。
漢、堀田、四十五歳!俺も仕事頑張ろう!
変な声が出たが、意識はしっかりしていた。