週報 2023/06/18 パンをスタンドミキサーで捏ねるには、クリスタルガイザーでお腹がこわれる原因
6/10(土)
歯の定期メンテナンスのために歯医者に行くと担当者が変わっていた。前まで担当してくれていた歯科衛生士さんは性格がきつくて手つきが乱暴な人だった。正直ちょっと苦手だったので喜んでいる。イライラしてそうな人だったので辞めてしまったのだろうか。
6/11(日)パンをスタンドミキサーで捏ねるには
日記の区切り文字に絵文字を使っている。
これまではh3とかh2みたいな文章を構造化するためのちゃんとした道具を使っていたのだが、どうもこれらの区切りは合ってない気がしていた。また、日記というものはその性質からしてタイトルをつけづらい内容も多い。日常はただ日常として記録されるのであって日常にタイトルがついているわけではない。
そこで区切り文字として---とか🦀🦀🦀を使うことにしてみた。---は林さんの日記を参考にした。絵文字を使うのはちょっとうるさい感じがするのだが、Appleの絵文字フォントはかわいいので楽しいほうに倒す。
🦀🦀🦀
パンを作る量が増えて効率的にこねる方法が課題になっていた。これまでは手でこねていたのだが、量が増えるとなかなか大変である。パンこねは引っ張ったり叩きつけたりする動作が大事だから、生地が重くなるとそれだけ筋肉が必要になる。
我が家にはキッチンエイドというスタンドミキサーがありパン生地をこねられるはずなのだが、何度やっても失敗してきた。うまくグルテンができないのだ。しかしパン屋では似たような形のミキサーを使ってパン生地をこねているはず。うまくやる方法はあって我々に知識が足りないだけだ、というあたりはついていた。
この日もあれこれ試行錯誤をしてミキサーでこねてみた。しかし機械でこねるとやはり弱いグルテンしかできない。不思議に思いながら妻氏が手でこね直すのを観察していたら体温が鍵になっているのに気づいた。実はパン生地は温度管理が重要である。こね上がったパン生地が25度から30度になっていると良い。グルテンの形成のためにも発酵のためにも必要な温度だ。
機械でこねる時に足りなかったのは体温なのだ。粉は冷蔵庫で保管されていたし水の温度も20度くらいである。うまくいくわけがない。
「ロシアの学者の論文をもとに化学実験をすると日本では再現しない」みたいな話だと思った。
6/12(月)巨大餃子を作りたい
朝から調子が悪く、自分と世界の間に薄い膜があるかのような気分だった。夢うつつとでも言うべきなのだろうか。ふわふわしていて頭がうまく回っていなかったことだけは覚えている。
家に帰って湿邪だったのに気づく。湿邪とは身体のなかに水と熱がたまって悪さをする体調不良のこと。去年は空梅雨だったので平気だったが、今年はしっかりジメジメな梅雨になっている。京都は盆地なので湿気がきつい。夏と冬の気候が厳しくて「何でこんなところに住んでいるのか?」と思うことがしばしばある。
🦀🦀🦀
ジョージアの巨大餃子を作りたい。Slackで雑談をしていた時のこと、最初は広島風お好み焼きの話をしていたのだが言葉遊びで「ぴろしま」と言ったら「ピロシキ」と返され、連想的にジョージアの餃子が出てきた。
餃子は皮を自作するとうまい。しかし包むのがめんどくさい。であるならば巨大な餃子を作って手数を減らすと良いのではないか。皮を自作するならば任意の大きさの餃子が作れる。これだ。
6/13(火)クリスタルガイザーでお腹がこわれる原因
同僚とおしゃべりをしていたら私の感情がない話になる。この同僚は珍しく認知特性とか言語についての話が通じる人で、毎月一対一でおしゃべりをしている。この日はいろんな人の認知特性について喋っていた。
感情がないと言うと少し不正確で、いわゆる「モヤモヤ」がないだけなのだ。「そういう考えがあることには気づいているが、言うことはできないもの」「言語化され、他人に言われたら興奮しながらそれ!と言うようなもの」は私の意識には存在しない。言語化されているか全く気づいていないか、のどちらかである。
「モヤモヤ」がないので、喋った感じが他人と違うらしい。妻氏には「あなたには慈悲が足りない」と言われたこともある。しかしどうしようもないのだよなあ。他人はとっても尊重してるのに伝わりにくい。
🦀🦀🦀
ジムでクリスタルガイザーを飲んだらお腹を壊した。なぜかわからないのだが昔からクリスタルガイザーでお腹が壊れる。軟水なので硬度の問題ではないはずなのだが、確実にお腹は壊れるし、Twitterで検索すると似たような体験をしている人はたくさんいる。Googleで検索をすると「クリスタルガイザーにはヒ素が入っている」という都市伝説まである。お腹を壊した人がやばい飲み物だと思って陰謀論を作ったのかも。
知人にこのことをしゃべると、バナジウムの量ではないかという仮説を提示された。確かにクリスタルガイザーにはバナジウムが含まれているようである。日本のミネラルウォーターでも富士山のふもとで取れるものには含まれているようだ。バナジウム入りのこのミネラルウォーターを飲むと仮説検証の実験ができるだろう。お腹を壊す実験はしたくないのだが。
6/14(水)
湿気で疲れているので休みにした。
前日に運動をしたおかげか朝から体調が良かった。何の予定もないただ休むだけの休暇にしたので幸福な一日を過ごすことができた。私にとっての幸福とは、朝から哲学をして本を読むこと、ただそれだけである。それだけなのだが頭の血流がたくさん必要なので体調が整っていないとうまくいかない。
🦀🦀🦀
モヤモヤどころかあらゆる感覚についての実在感がないことに気づいていろいろ考える。しかしないものはないので特に結論は出なかった。
6/15(木)
文学に興味が出てきた。私には言語以外の感覚が乏しくて、他人の精神のありようが全然わからない。共感不可能。
小説、特に純文学は脱目的的に、ただそうあるがままを描写するところがあるらしい。他者の多様性および精神のありさまを知るには純文学を読むのが手っ取り早いのではないか。妻氏がいくつか持っているので勝手に読んでみようと思う。
そういえば『百年の孤独』は途中で投げてある。半分くらいまで読んだのだが、あまりのおもしろさに怖くなって放置している。マジックリアリズムと言うが、あの本の魅力そのものが魔法みたいだ。
6/16(金)価値観のアップデートは困難である
自作の麺でラーメンを作ったら微妙な味になった。なぜなら麺に鹹水が入っていなかったから。最初はうどんを作ろうと思っていたのに、製麺をするときになんとなく細麺にしてしまったらしい。
妻氏にも食べさせて微妙な顔をされたので「蕎麦打ち趣味(蕎麦ではない)で家族に迷惑をかける」の実績が解除された。
🦀🦀🦀
「価値観のアップデート」というまことに疑わしい言葉がある。本当にそんなことができるのか考えてみた。
結論、困難である。なぜなら自分の大事な価値観を話す相手は親密な人だけだし、価値観の話をされても自分の価値観を変える人はほとんどいないから。
「価値観のアップデート」が問題になるとき、背景には世代ごと老いていくことが懸念されている。年をとった人が若い人と絡んで「価値観をアップデート」しようと試みるが、年齢差が大きい場合親密なコミュニケーションにはならない。どれだけ仲良くなってもどこか接待じみた対応をするものである。日本において儒教の影響は大きい。
仮に大事な価値観を打ち明けたとしても、価値観についての説明を聞いただけでは自分のものにすることはできない。分かった気になって満足するだけで終わりである。また、そもそも価値観を言語にするのは難しい。
行動だけ真似したら「最新の価値観」が身につく可能性はあるが、「なぜそうするのか?」がわからない行動を真似られる人は少ない。自己啓発みたいに具体的行動と考え方が明示されていても、日々の行動を変えるのは難しいのだ。生半可な覚悟では行動は変えられない。
ある世代に固有の価値観があるのかどうかはよく知らない。私としては留保しておく。もしあるとするのならば、上記の理由により他の世代には簡単に伝わらないものにになるはずである。
『言語はこうして生まれる』を読んだ
いま売れている『言語の本質』の宣伝インタビューで紹介されていたので読んだ。
この本のメッセージはたった1つ。「言語はジェスチャーゲームのように即興的に使われるものである」。
ジェスチャーゲームとは手でジェスチャーを作って相手に意図を伝えるゲームである。例えばハンドサインで車の記号を作れたとする。車を表現する手を片方向に動かすことで移動を意味する記号が作れる。車をひっくり返すことで事故を意味する記号になるかもしれない。ジェスチャーゲームを続けていくとだんだん複雑な表現ができるようになり、手を使った図形的な表現も次第に簡略化されていく。簡略化された車を意味する記号にたくさんの意味が重ね合わせられるかもしれない。これはまさに現実の言語で起きていることと同じである。
本書のメッセージと対立するのは、言語を法律の条文のように扱う考え方である。文法や言葉の意味が厳密に決まっていて、言葉をエンコード・デコードしながら喋っているというような捉え方。またバベルの塔のようにある原型となる始祖言語が存在した、というような考え方。どちらも本書の立場からすると間違いである。言語は即興的なものであって、人がなにか伝えたいという意思を持っている限り、自然に発生し変化していくものなのだ。
説得力があっておもしろい本だったが、後半は微妙だった。いらんことばかり書かれていて英語圏特有の冗長な文章になっている。読まなくてもいい。
数学も哲学も妄想の一種である
あるとき、チョムスキーという人が現れ「言語には原型が存在していて、その原型は人類の遺伝子に刻まれているのだ」と主張したそうな。もちろんそんなものは存在しない。妄想である。
数学者とか形而上学をやるタイプの哲学者はこの手の考え方が好きだよなと思う。何かとても綺麗で一般的な根源があって全てがそこから派生するというような考え方。この手の人たちに「それはあなたの妄想でしょう」と言うと怒られる。いいや、実在するのだと言われる。
数学も哲学も妄想の一種である。なぜなら自然科学と違って物理的な再現性は取れないから。数学と哲学に共通する真理性は実験の再現性ではなく、(おそらく)万人が説明に納得できるであろう、という仮定の上に成り立っている。
言葉や記号を基盤とする学問は現実から離れ妄想の世界へ突入する恐れがある。数学でどうやって妄想でないかを検証するのかは知らないが、哲学の場合は生活世界で現実と付き合わせるのが大事だ。言語学の場合も最近は具体的な言語使用の調査を大事にしているらしい。
「魔法」の使いどころ
チョムスキーは遺伝子という「魔法」が普遍文法の根拠になってくれると考えていた。
「魔法」は空想と現実をつないで、何でも願いを叶えてくれる便利な道具だ。現代でもビットコイン、DX、なんとか健康法として「魔法」が登場する。学者であっても彼が夢を語るとき、現実と乖離したことを語った瞬間に「魔法」を使ってしまう。また、空想と現実の間をつなぐもの(遺伝子、仮想通貨etc)について無知であるほど「魔法化」しやすい。
でも「魔法」が役に立つこともある。例えばSF作品である『虐殺機関』の「虐殺の文法」は現実には存在しない「魔法」だが、物語の核心として話をおもしろくさせるのに貢献している。
物語は現実から少しだけ離れているのがわかりやすい。現実にプラスアルファ、一点だけ「魔法」を導入するとよい物語になるのだと思う。他方、現実的な話をするときに現実から離れられると困る。当たり前だ。
「魔法」は現実という地面からフワフワ浮きあがらせてくれる。使いどころを間違えてはいけない。便利だが、厄介な言葉の能力が「魔法」なのだろう。