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週報 2023/07/16 『人はみな妄想する』を読んだ、「能力があること」「能力が発揮できること」は別の問題

7/8(土)

一日中ねむい。一刻も早く鍼をされねばならないが、次は火曜日である。もうだに。

朝は10時すぎまで寝て野菜スープを作ったらお灸をしてもらった。ちょっとよくなったが、すぐにばんたきゅー。ばたんきゅー。
昼食のパスタイーブイを食べて昼寝。いろいろ無理なのであえて寝た。
起きたらまだ微妙で動画をみて過ごす。

夕食後しばしソファで過ごし、ようやく週報を書いた。
風呂から出てきたら相変わらず頭がぼやぼやしていてダメそう。

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あまりにダメなので料理動画をみている時間が多かった。
https://www.youtube.com/watch?v=OVQjp8Vz3Bo
異常に丁寧なソフリット。
https://www.youtube.com/watch?v=GnZ95CKOGvw
別の人の野菜炒め、中華料理の基礎。

7/9(日)

(ランチの中華料理屋にて)
店内のBGMがJ-popだった。リズムが単調で遅くて、ぜんぶ中高生の合唱曲に聞こえる。
なぜこんなにつまらないのか。根本的にはリズムだが、リズムのひどさをもたらしているのは発音の単調さである。標準語が悪いのだ。いつもの方言・外国語の話をした。

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睡眠薬の副作用により妻氏が布団に沈んだ。3時間くらい寝ていた。
起きてくると悪夢を観たという。私が人を殺して食うのだそうな。睡眠薬の悪夢はキツいらしい。

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やっと引き切りを身につけた。ファビオのおかげ。
左利きの料理人を見たからだと思う。たいていの料理動画では包丁の動きが見えない。料理人の右腕を写すような画角って見たことない。
ファビオの場合は左利きで正面にカメラがあったので引き切りの作法がよく見えた。このおかげで自分の切り方がおかしいことがわかった。
たぶん他の領域でも同じことがあるだろう。左利きの人を観察することで身につく所作。

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テキストは書きやすいところから書けばよい。

書けるところから、頭が意識しているところから書くのだ。書き始めると頭の調子、体調がどうなっていようと書ける。とにかく始めるのが大事。手をつけさえすればいい。
デジタルはこの点でも有利。書いたものの入れ替えが簡単だから、順番をめちゃくちゃにしても成立する。

7/10(月)

https://shiitakeuranai.jp/half-yearly-horoscope/2023-h2/
しいたけ占いが復活していた。
下半期の占いが出ていて大喜び。

カプリコーン(山羊座)はなんともハチャメチャそうな占いである。

2023年下半期は「空けてきたスペースに、大きな贈り物がすっぽり入っていく体験」をあなたはしていくのです。

自分がやってきた偉業を証明する
自他共に認められるような、コツコツやってきたことの結果が出る
準備してきたことが、完全に実る
自分の予想も覆し、独壇場の状態になる

いや本当にそういうことがあると嬉しいけれども。

時期としては8月に変化があるようだ。もう来月じゃん。7月は休んどけとのこと。了解。

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千葉雅也の『アメリカ紀行』を読み終わる。
サバティカルという大学の制度を使って北米の大学で研究や交流をしていたらしい。そのときのTwitterをもとにした日記形式のエッセイ。文章が上手で暗いのでよかった。

7/11(火) 風邪

念願の鍼に行くと風邪だと言われる。自覚はなかったがよく観察すると喉が鳴るしちょっと違和感もある。「コロナか?」と恐れるが「コロナの場合はもっとあちこちがめちゃくちゃになっているので、たぶんコロナじゃないと思う」と言われた。コロナかもしれないしそうではないかもしれない。というか妻氏が今日二次会まで行っているのでそこでもらってくると思う。そしたら私も感染して(予定されている職場の行事)に参加しなくてよくなるのだ。39℃の熱と引き換えに。あっ備蓄がない。やべえ。お粥メーカーしかないな。

それはさておき、どう風邪なのかというと肺と腎がずーんと落ちているやつ。脈でもお腹でもそうだったので間違いない。大椎なんかはそこだけ冷たかったそうだ。もちろんお灸をされた。というか、(鼓膜の)体温もこの頃低かった。夕方に37℃を超えない日が多くておかしいな、と思っていた。鍼灸治療をされたらふつうに37.5℃とか出ている。初めて冷えを数値観測できて喜び。やっぱりここ何週間かの体温グラフはおかしかったのだ。

なぜ冷えたのか。いろいろある。梅雨のじめじめと夜のエアコン、(職場のあれこれ)。いちばん怪しいのは長風呂。夏の長風呂はよくないらしい。長風呂して本を読んでるがな。やめます。

この夏風邪は要警戒なものらしく「家に帰ったら暖かくして早く寝ろ、できれば明日は休むといい」とまで言われた。よっぽどなのでしっかり休みたい。ちょうど明日は在宅勤務なのでなんとかなるだろう……。

挿絵

7/12(水) 「能力があること」「能力が発揮できること」は別の問題

このごろ労働のパフォーマンスが高い。「バカ」になって仕事をしていたらそれが進捗の速さにつながってしまった。マネージャーのxxさんには感謝してばかりである。
だが、xxさんがアドバイスしたのは「コアが掴めなくてもとりにいったらどうか」「コアがわからないまま動くのもあり」だけ。私は二週間で変化したので、もとから今のタスクの進め方をする能力はあった、ということである。xxさんは私の能力が発揮できるように方向づけたわけだ。
つまり「能力があること」「能力が発揮できること」は別の問題なのだ。前者は労働者の責務で、自分で能力を鍛えて維持する必要がある。後者はマネージャーの責務で、労働者が力を発揮できるよう環境を整える必要がある。その手段としてチームの人の組み合わせとか、道具を買ってやることなどがある。1on1による指導も然り。

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昼に焼きそばを作ったらかつてなくおいしくできた。先日中華料理の野菜炒め動画を観たのがよかった。中華料理では水が出る野菜、出ない野菜を区別してカテゴリごとに炒めてわきに除けておく。こうすると、いらない加熱をせずに適切なシャキシャキ感を維持できるのだ。

ザーレンとコークスコンロが欲しいぞ。

7/13(木) 開かれていたほうがお得

「バカ」になってメモを書きまくったあと、それを業務wikiに貼りつけて簡易なドキュメントにする技を覚えた。「あーどうしよめんだこにょろにょろ」入りのメモ書きをそのまま社内システムに上げている。でも内容はちゃんとしたお仕事。

考えながら書いた思考をそのままチームに共有しちゃうのって「いみじくも君の言うとおりだ」と言われたときの、「リーダーシップとは?」「勝手に行動すること」と同じなのではないか。「バカ」になって思考の例を示すということ。沈思黙考し、よく考えてきちんと行動することは知性だが、それは範としての行動からはほど遠い。
うー?「来るべきバカ」であることは、何が起こるかわからない現実に対して開かれつつ行動すること。開かれた突端で行動すると、未知のものや偶然性が得られてお得であるだけでなく、もっとも素早く動くことができるのだろう。
開かれた突端で行動するには勇気がいる。うまくいったら模範になるが失敗も多い。道化みたいだ。

なんでこれを思ったのかというと、真面目な人は完璧なドキュメントを書こうとするのに対して、私は「あひゃ〜」みたいな中途半端でてきとうなドキュメントを書いては捨てているから。閉じられたものを作るのは安全だが何もおもしろくはない。開かれたものを作るのは、不安定で勇気がいるが、たまにおもしろいことがある。

7/14(金) 各々が症状と向き合うしかない

起きて朝食を食べ、日課のインターネットをしたら読書。荷物を受けとってまた読書。ラカン本『人はみな妄想する』をほぼ読み終わるところまで来た。

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ラカン哲学の結論はなかなかおもしろい。
「神経症も精神病も関係なく、人は自分の症状(サントーム)といい感じの距離をとっていればそれでよい」
「症状の原体験に幼児期の言語との出会いの衝撃がある。その人固有の原体験に対して、社会的な言葉による説明をつけるのではなく、自分なりの言葉を与えるのが大事」
「自分なりの言葉を作り、自分なりの大他者を作ることは、洗練された自閉症がやっていることと同じである」
これ我が家では当たり前のやつだ。千葉氏を経由して影響を受けているとはいえ。

症状とうまくやっていくのに大事なのが創作だ。結局のところ、各々の創作行為を突きつめると自分の症状との向き合いになってくる。
それがわかっている人は、他者がどう言うかよりも自分がどう作りたいかを優先する。そうやって毎日作り続けることが、症状への癒やしになるのだ。癒やしは自分で与えられる。これを享楽という。
わかってない人は真似をして、他者の歓心を買おうとする。洗練されていない自閉症。社会的な言葉、自分のものではない言葉で妥協をするようなものだ。こういう人の創作はつまらないものができる。人に合わせちゃうから消費はされるけれども。

人に見せる創作で大事なのは、自分の症状と関わる創作を人に認められることだ。たった一人でいい。症状の核の部分を表現し、それが伝わればよいのだと思う。

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(他人の精神構造についていろいろ分析したテキストがあった)
この件に限らないが、人はたいてい他者へ期待する方向へ向かう。他者に何かを求める。私にはこれがわからない。
たぶん大文字の他者が、象徴界のなかにいて自分を見つめてくる他者の機能が欠けているのだと思う。ふつうの人は無意識のなかに他者を飼っているものらしい。
なるほど、だから人々は「明らかに自分の性質が優れている」場合でも、大他者による抑制がはたらいて、自信を得られないのだろう。躁鬱病や精神病構造、アファンタジアにはこれが欠けている。そんなに大事なものなのかどうかは知らない。

出てきたものは出てきたもの

私は毎日日記を書いている。『日記の抽象化』にも書いたように、一次日記と二次日記がある。一次日記はWorkflowy上のツイートで、二次日記はちゃんと煮詰めて書いたもの。毎日二千文字から三千文字くらい書いている。

先日、坂口恭平と千葉雅也の対談動画を観た。坂口氏はおかしな人だが、そのおかしさが私に少し似ている気がしたのでさいきん興味がある。

この動画のなかで「毎日絵を描いていて、できたものをそのまま出すしかない。いいものができる日もできない日もある」と坂口氏が言っていた。
たしかに「そのまま出す」のが一番いいよな、と思った。これまでの週報は基本的に編集をして書きなおしていた。書物の原稿のように書くならばそうするほうがいいのだが、ブログ記事でそこまでする意味はない。むしろインターネットに公開して差し支えないテキストならば、二次日記を書いたそのときの気分をそのまま露出したほうがよいまである。
しょうもない事情としては時間の話もある。文章を書くのは早いほうだが、週報のテキストをいちから書いていると合計で3, 4時間は使ってしまう。それよりももっと読書や休息に時間を充てたい。

こうやって、コラージュ形式で週報にすると30分で原稿ができる。こんな楽なことはない。しかも無編集の、思考のごりっとしたものがそのまま出てくる。毎日産出したものはそういう事実的なものなのだから、無理にいじらないほうがいいのだろう、と思った。

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