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週報 2023/07/09 日記を書かないと頭がバグる、業務の雑談が減る構造、チームビルディングの本質

7/1(土)エアコンクリーニング

念願のエアコンクリーニング。
4月に引っ越して夏が来て、エアコンを稼働させたら臭かった。前の住人がクリーニングしていなかったらしい。
クリーニングを手配したのは6月中旬くらい。繁忙期ゆえ、2週間待ちだった。

午後に空調服を来たおじさんが一人でやってきて、3時間半かけて完全分解清掃をしてもらった。
エアコンの内部は汚く、特に結露した水を受ける部品が黒っぽかった。

知らない人が3時間も家にいるのはストレスだが、それはおじさんにとってもそうかもしれない。ちょっとピリピリしながら机で待機していたら読書が捗った。

7/2(日)バジルがでかい

越冬させていたバジルが全滅したので近所のKMC部員に種をもらって再出発をした。

いつ種を撒いたのか覚えてないのだが、いつの間にかモサモサになっている。バジルの種はゴマほどの大きさしかないのに、最終的に低木になるのだ。すごい。

ちょっと鉢が狭すぎたかも。このバジル兄弟たちには生き残りを賭けた競争をしてもらう。

7/3(月)バカになる実践

先週の週報で「わからんまま歌えるようになりたい」「バカになる」的なことを書いた。

さっそく仕事で実践してみる。
「わからんまま歌う」とは何かというと、理性を使うのを留保して感覚的に行動すること。「スロー」な理性に対して「ファスト」な感覚を少しばかり優先すること、だと解釈している。おそらく登大遊の『論理的思考の放棄』と近いもの。

大事なのは一カ所を凝視しすぎずにぼーっと画面全体、本全体を見ること。半ばぼーっとしていて、刺激に無意識で反応できるようにしておく。

思ったことはすべて文字にする。バカみたいに「えーと次は何するんだっけ、あーあれだ、えーと」みたいなテキストをメモ帳に書く。

「バカになる」と表現すると字面がよくないのだが、バカなほうが仕事が進んだ。タスクをするのに迷うことがなくなった。何でも頭のなかだけでやらないほうがいいらしい。

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Twitter API制限の狂騒を眺めていたら「テキストインターネットの特殊性」に思い至った。

7/4(火)生活としての料理

先日のフランス野菜スープの記事が人気だった。
長く残る知見だろうな、と思って記事を(週報から)分けたのは正解だった。このブログはなぜか料理記事への流入が多い。

私のことを料理趣味の人間だと思う人もいるのだが、たぶん今は違う。
料理は生活に必要だからやっているだけで、趣味的にあれこれ作るものではない。連休でよっぽど元気があれば変なものを作るくらい。基本的に時間がないので、料理よりも読書を優先している。

毎日作るものの知見は以下の記事にまとまっている。生活としての料理に興味がある人には参考になると思う。

7/5(水)日記を書かないと頭がバグる

頭が疲れて何もできなくなる体験をした。

重い会議が二つ入っていて、メンタル的にも消耗することがあった。二つ目の会議の途中で頭が動かなくなり、議論についていけなくなる。先週の諍いが遠因ではある。

そのまま夜まで頭が動かなかったのだが、日記を書いたら調子が戻った。
もしかしたら躁鬱に近い何かだったのかもしれない。頭が動かないことほど恐ろしいものはない。ストレスを避け休養し、日記を書き続けていきたい。

7/6(木)精神分析がおもしろい

『人はみな妄想する』と『生き延びるためのラカン』を読んでいる。ラカンの精神分析の本。

精神分析はもとから興味があった、というかフランス現代思想をかじっていると避けて通れない。それに、自己探求もずっと趣味なので精神分析で自分を掘り返す体験はしてみたかった。

ところが、本を読んで精神分析について知ると、自分は精神分析を受けてはならないタイプなのがわかってきた。精神分析は「神経症タイプ」に有効な方法であって、「精神病タイプ」にしてはならないのだ。

この二つのタイプはプリズムとガラスみたいなものである。人間の頭蓋骨がプリズムもしくはガラスでできているイメージをする。

外から入ってくる情報を光だとすると、「神経症タイプ」はプリズムみたいに光を曲げて意識に入れる。曲げかたは個々人の「欲望」によって異なる。「精神病タイプ」は光をそのまま意識に入れるのだが、たまにガラス面にゴミがついていて絶対に光が入らない場所がある。

「神経症タイプ」「精神病タイプ」と言っても、別に病気になっているわけではない。多大なストレスを受けたらそのように発病するであろう、というだけ。精神分析家のもとには発病した人が来るので。

どちらなのかを知っておくのは大事。特に「神経症タイプ」であれば何らかの抑圧された「欲望」があり、それと一生付き合う必要がある。把握しておくと便利である。

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苦労してLUUPのポートを見つけ、乗ろうとしたら巨大ミミズを踏んでしまった。
なんで都市のマンション敷地内に巨大ミミズがいるのか。

7/7(金)業務の雑談が減る構造

みんな疲れているのか雑談が多い日だった。雑談ってなぜか疲れていると発生しやすい。残業とか。

昔(2019年まで)は会社に残って仕事をするしかなかった。締切り前には毎日20時くらいまで残っていて、集中力が切れたら同僚といらん話をしていた。なぜか日中は雑談が起きなくて、定時後に喋れるようになる。

今だとだいぶ状況が変わっていて、定時後に在宅勤務をしてしまう。仕事が溜まっていても定時で切りあげ、少し休んでから家で仕事をする。効率的で昔よりも健康的だが、雑談は起きえない。

私も残りたくはないのだが、構造的に雑談が失われているのは問題だと思う。しかし解決策は思いつかない。

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bamixのブレンダーを買った。

増えすぎる予定のバジルちゃんを刻んでジェノベーゼソースにするのだ。

かつて、京都ヨドバシカメラの7Fに「先斗入ル」というパスタ屋があった。そこのジェノベーゼソースパスタが好きだったのだが、この店はコロナ禍で消滅した。チェーン店なので他の店舗はあるのだが、どうもうちからはアクセスしにくい。

『短歌をよむ』を読んだ

『サラダ記念日』で超有名な俵万智の歌論エッセイ。寡聞にして知らなかったのだが俵万智は恋愛の短歌を詠む人だったらしい。知らずにタイトルで買った。

短歌の解説についてはまっとうな内容だった。曰く、短歌とは57577の31文字の空間で心情を表現する文学である。31文字の制約は窮屈でも長すぎでもない。ちょうどよくて、いろいろな題材が詠める。また、逆に制約があることで止めどない悲しみを切りつめて表現するのに使えるのだとか。

短歌は若いうちから詠む人が多い。だが、たいてい第一歌集がピークで、そこを超えるのが難しいとされる。現代短歌では「心の動きの表現」が評価されるのだが、短歌を長く続けても技巧だけうまくなって内容が伸びることは稀だから。

短歌についてよくわかるいい本だとは思うのだが、俵万智のじめっとした語り口は苦手だった。

チャットと偶像

チャットってけっこう毒なところがあって、「偶像」を相手に喋ってしまう。
「偶像」とは自分で勝手に作った相手のイメージ。思い込みとか感情的な捻れが織り込まれて「偶像」になるので、相手そのものとは別物である。

口頭での会話では、会話の速度がはやくて「偶像」を出す暇がない。
精度のよい「偶像」ができない限りはチャットをしないほうがいいな、と思った。

チームビルディングの本質

弊社でエラい人がよく「チームビルディング」という言葉を使う。「チームがいい感じに力を発揮できるように環境を整える」くらいの意味に理解していたが、どうも本質を掴めてない感じがしていた。たぶんエラい人や世の中の人も曖昧な認識で使っている言葉だと思う。具体的に何をしたらいいのか、ようやくわかったので書いてみる。

相互に知ること

本質は「相互に知ること」である。それだけ?それだけ。
それだけなのに難しいからあえて「チームビルディングが云々」と言われるのだ。実際に「人を知る」のは難しい。

長く同じ仕事をしていると「ああメンダコさんね、知ってる知ってる」となる。でも、こう言う人はその人のことを「わかった気になっているだけ」。少しずつ実際のメンダコさんは変化しているのに、わかった気になった人の認識はどんどん現実から遅れていく。人は数年あれば考えかた・行動が変えられる。長い付き合いほど油断しやすい。

「人見知り」のタイプもいる。知らない人は怖いという感情。きっかけがないまま同僚とは最低限の距離をとり、そのままにする。これが一番多い。

あとは「興味がない」タイプ。業務が遂行できていればいいでしょ、みたいな人。あるいは道具とか計算機にしか興味がない人。

なにを知っておくのか?なぜ知っておくのか?

「相互に知っておいてほしいこと」はプライベートの趣味とか家族関係ではない。大事なのは「人となり」。その人の性格の癖とか、興味の対象、持っている技術や知識について知っていたらそれでいい。

ではなぜこんな面倒なことをして「相互に知る」必要があるのか。

チームで働いているからである。『分業は悪だがやめると食えなくなる問題』に書いたように、組織的に仕事をすると一人では生みだせない量の富が得られる。これが我々の豊かさである。分業は社会構造レベルだけでなく、ある会社の中、部署の中でも行われる。つまり、チームで働いている以上は誰かに仕事を頼む必要がある。

ここで「人となり」の知識が効くのだ。仕事を頼むときに相手のことを知っているほどスムーズである。知らないとその人に向いていない仕事を押しつけてしまうかもしれない。失礼でもある。

「村」と「液体社会」の中間へ

「相互に知っている」人が増えていって、知り合いネットワーク構造がフルメッシュに近づくと、それは「村」になる。すべてが筒抜けで不自由な社会。

我々はこの「村」にNOを突きつけ、個人化された自由な社会に至っている。だから「村」には戻れないはず。なのに、「相互に知って」効率的に仕事をするために「村」的な所作が必要になってきている。

たぶん我々は「村」の逆張りをしすぎたのだろう。

社会学では自由すぎるこの社会を「リキッド・モダニティ」と呼ぶ。水みたいに分子間力が弱い状態。自由の横溢。

一度液体になった以上、我々はソリッドな「村」的な社会には戻れないので、どこか中間地点に落ちつくのだと思う。液体でも固体でもない社会に。


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