見出し画像

自分軸と自分勝手の違いについて


最近この「自分軸」という言葉をよく聞くようになったなと思います。

わたしは2012年の春頃に自分のアイデンティティが崩壊して自己否定キャンペーンに突入してしまったのですが、考えてみるとその頃から長らく「他人軸」で生きてきました。

わたしの価値観は、わたしにとっては心地よいけれど他人にとっては迷惑かもしれない。
わたしの「嬉しい」は他人の「迷惑」かもしれない。

相手に嫌な思いをさせないためには、相手にとって心地よい人でいなくては、、、


一般的には「自分がどう思われるか怖い」とか「防衛本能」で人の目を気にすることが多いと思うのですが、

わたしの場合は、自分が大切にしたいと思っている人を無自覚に傷つけているかもしれないことへの恐怖心がとても大きく、全力で自分の感覚を消す努力をしてしまったのでした。


それまではどちらかと言うと日本人にしては珍しく「人からどう思われるか」をほとんど気にしないタイプだったので、相手を観察する能力が極端に低く、それに伴って「推測する能力=相手の立場に立った思いやり」の能力も低く、

わたしとしては大切に思ってやっているつもりでも、ただのお節介、というパターンも多かったのです。


そんなわけで、そのことに気づいたわたしは程々が分からず極端に振り切れてしまい、とにかく相手を観察して推理をする訓練をし、
相手にとって心地よい自分になる
=自分の心地よさを後回しにする、ことを徹底してやり続けました。

その結果見事に、自分の感覚が分からない他人軸人間が出来あがり、さらに元々の「お節介タイプ」から「人に干渉しない、人とあまり関わろうとしない人」へと変貌を遂げていきました。


さて、このように書くと一見「マイナス面」ばかりのような印象がありますが、約7年、そんな時間を過ごしてきて気づいたのは意外にも観察と推理の訓練によって「見える世界が各段に広がった」というプラス面でした。

つまり、他人軸がダメだったわけではなく、そこに「自己否定」というオマケをつけてしまったことが問題だったのです。


自分軸で気ままに生きてきた経験と、そのアイデンティティが崩壊して他人軸を優先して生きる経験の両方を経た今分かったことは、

一般的な日本人に多いとされる「他人軸」を優先する生き方は実は「相手目線で思いやる」とてもとても大切な感覚であり才能であるということです。

ですが、問題はこの才能の使い方なのだと思います。
つまり「自己犠牲」とセットで使ってしまったり、「自己防衛のために相手を優先して自分を押し殺す」ために使ってしまうと、なかなかの悲劇が起きてしまうというわけです。


一方で、最近はやりの「自分軸」は、どこか「自分さえ良ければいい」というニュアンスがあるような気がします。これではただの自分勝手になってしまいます。

本当の自分軸は、自分の感覚を軸に周りとも調和することなのではないかなと個人的には思っています。

ただ、あまりにも「他人軸」を優先して自分の心地よさをないがしろにしてきてしまった人にとっては、まずは思い切って自分勝手になってみるというのもリハビリとして必要なプロセスなのかもしれないとも思います。

ちなみにわたし自身は、リハビリのために思い切って自分勝手に振る舞ってみることにチャレンジして苦い思いをしましたが、それも今となってはいい思い出です笑


以上のことから、
周囲も大切にできる自分軸、
自分も大切にできる他人軸、

つまり自分軸と他人軸がちょうどよく混ざったハイブリッド型になれると「自分も周りもしあわせ」な心地よい生き方ができるのだろうなと、今はそんなふうに思っています。


そして最後にもう一つ。
わたしにとってはこれが最も大切な価値観なのですが、
自分軸も他人軸も、自己犠牲も自分勝手も、何一つ「ダメ」なものはないとわたしは思っています。

あくまでも一つ一つが人生の中の大切な経験であって、その状態でいることで感じたこと一つ一つが人生の彩りだと思うからです。

ただ、より心地よく、より快適にと言ったゴールを定めたときには、方向がズレているか合っているかという見極めが必要になってくるため、ある種の「ジャッジ」が必要になるのだと思います。


そんなわけで、
これまでの自分の人生のすべてを受け入れつつ、今の自分のありのままを受け入れつつ、より快適に生きれる自分になっていく変化を楽しむ、、、

そんなふうにしてこれからの人生を楽しんで行けたらいいなと思う今日この頃です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?