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🇪🇬エジプト旅行記 Day2【2/8】

エジプト旅行記
2024/12/28〜2025/1/5(6泊9日)
Day 1  旅行背景&旅程の全体像、日本出国
Day 2 ギザ観光
Day 3 アスワン観光
Day 4 ルクソール観光
Day 5 白砂漠・黒砂漠観光(前編)
Day 6 白砂漠・黒砂漠観光(後編)
Day 7 カイロ観光
Day 8 エジプト出国&まとめ

Day2はギザを中心に以下を観光した。

・ギザのピラミッド
・大エジプト博物館
・イブン=トゥールーン=モスク
・ハン=ハリーリ

ギザのピラミッド

2024/12/29 (日) 7:20 入場口
ホテルからピラミッドエリアの入場口に向かう。道端の野犬を避けながら、入場口に着くもまだ開場しておらず、待機列ができていた。
売り子がベドウィンスカーフを800EGP(約2,400円)で販売してきたため、200EGP(約600円)に値切って購入。このベドウィンスカーフはアブダビだと$35(約5,000円)で売られており、日本のECサイトでも1,500円程度で販売されていたため、200EGPで購入でき満足した。恐らくエジプトの物価的にもっと値切れただろうが、今回の旅行は時間の余裕がないため、自身の相場観から外れていなければ取引する方針で値段交渉を行うこととした。なお、ここで購入したベドウィンスカーフはこのピラミッド観光のみならず、後のアスワン観光や砂漠ツアーでの日差し避けに大いに活躍した。このエジプト旅行で最も購入して良かったものだといえる。

ギザは特に野犬が多い
スフィンクス側入口

7:30頃から入場が始まり、eチケットの印刷紙面を受付に見せる。
今回のエジプト旅行では以下の入場にあたり、事前にeチケットで購入した。現在、多くのエジプトの観光地ではカード決済のみであり、不具合等で支払いできないことや何よりも長蛇の列に並ぶことを避けたいため、eチケットの利用を決断した。

https://egymonuments.com/

・ピラミッドエリア入場(700EGP)
・クフ王のピラミッド 内部入場(1,500EGP)
・大エジプト博物館(1,200EGP)
・王家の谷 ツタンカーメンの墓入場(700EGP)
・王家の谷 ラムセスⅤ/Ⅵの墓入場(220EGP)
・サラディン=シタデル入場(550EGP)
・エジプト考古学博物館(550EGP)
(金額は2025年1月時点の外国人成人の料金)

ピラミッドエリアの入場料が700EGP(2,100円)に対し、クフ王のピラミッド内部への入場料は1,500EGP(4,500円)と2倍以上の価格が設定されている。本エジプト旅行全体を通じての感想でもあるが、エジプトは物価(宿泊費や食費)は安く、観光には非常にお金がかかる国だ。これらのチケットは年々値上げされているようである。

入場すると、すぐ目の前に大ピラミッド3つとスフィンクスが現れ、圧倒させられた。空港からホテルまでの道や入場待ちの間にも部分的にピラミッドが見えていたが、いざ目前にすると圧巻で声が出なかった。
モンゴル旅行でも触れたが、私は巨像や巨大建築物の持つ威圧感やそこから生じる畏怖感が好きだ。きっと古代人も巨像や巨大建築物からこれらの感情を抱いていたに違いない。

入場後の景色
スフィンクス
あまり帽子が好きでないこともあり、
ベドウィンスカーフは大変重宝した
(自力で巻くのは難しいため帽子も必要だったが)
スフィンクスとギザの街並み
意外にも街から近い位置にある

スフィンクスの横を暫く歩くと、右手にクフ王、左手にメンカウラー王のピラミッドが見えてきた。クフ王のピラミッドを時計回りにぐるりと回ると複数のバスが停まる駐車場があり、その前にピラミッド内部への入り口の列が出来ていた。

石段を一つずつ登ってピラミッド内部に入ると、まずは上昇通路という狭く急な坂を登ることとなった。天井が低いため、中腰になる必要があったが、バックパックを背負いながらでは度々天井にぶつかってしまったため、なかなか進むのに苦労した。
上昇通路を抜けると、高さ8.5メートル、長さ48メートルもある大通廊という空間に出た。光源の設置に工夫がされていることもあり、非常に幻想的なものとなっていた。古代エジプト人はよくこんな巨大な空間をピラミッド内に作ったものだと感心した。
大通廊の先には、花崗岩でできた石棺のみが設置された「王の間」がある。たったこれだけかと驚愕する人やわざわざ入る価値ないとガッカリする人も多いが、あの巨大なピラミッドの内核となる部屋まで到達したという達成感や内部の隙間なく詰められた石構造、一枚の巨大な岩盤から切り出された石棺を生で見ることができたのは貴重な体験だった。ただ、ピラミッド内部は非常に蒸し暑い。朝8時で人が比較的少なめであるにも関わらず、あまりの熱気や湿度から長居できなかった。

クフ王のピラミッド
クフ王のピラミッド 入場口
クフ王のピラミッド内部 入口
ピラミッド内部 上昇通路
ピラミッド内部 大通廊
ピラミッド内部 王の間

2024/12/29 (日) 8:30 クフ王のピラミッド前
ピラミッドから出て休憩していると、ラクダ乗りが勧誘してきた。このラクダ乗りはエジプト名物のボッタクリであり、数多くのWEBサイトやYouTubeで値段交渉で揉めている様子が取り上げられていた。具体的には、「60分の約束のはずが15分で切り上げられた」「砂漠の真ん中で降ろされ、歩いて戻る羽目になった」「写真撮影は別料金として、高額をふっかけられた」「高額なチップを支払わない限り、ラクダから降ろしてもらえなかった(ラクダは背が高く、自力で降りるのは非常に危険)」「ラクダの案内人に料金を支払ったら、ラクダ使いにも支払う必要があると倍の料金を請求された」などの苦情が挙げられていた。
公式料金で60分EGP500という看板があったため、自分の行きたかった9つのピラミッドが一望できる9 pyramids view panorama pointまでの往復と写真撮影を依頼することにした。自分はYouTubeなどで詐欺的な値段交渉をすることを知っていること、彼らにとっても観光案内無し/パノラマポイントまでの往復でEGP500は破格のオファーであることを十分に説明・納得させた上でラクダに乗ることとした。
他にも、先払い依頼に対して後払いでないなら別業者を探すと断固拒否する、パノラマポイント(他にも複数のパノラマポイントが存在する)は9つのピラミッドが見える場所か画像で認識確認する、ラクダ使いにしか金額は払わないことや撮影込みであることを念入りに確認する、遺跡の解説を始めたら「観光は不要」と即制止する等色々工夫した。

値段交渉を終え、片膝を着いて座り込んでいるラクダに跨る。座り心地は不安定で、ラクダが立つとその高さと揺れに不安を覚えた。ラクダに対してのんびりと砂丘を歩くイメージを持っていたが、石段やちょっとした岩崖は平気に登り降りし、それなりのスピードで走るため、しばしば落ちそうになる。パノラマポイントまでどの程度時間を要するか不明であるため、EGP500のキャップを設けていたが、片道20分でパノラマポイントに到着した。
パノラマポイントからはピラミッドが6〜8つほど連なっているのが見えた。厳密には9つらしいが、右端のピラミッド群は小さく、またビル群が側にあることからあまり分からなかった。だが、ピラミッドが6つか9つかそんな些細なことがどうでもよくなる見事な景色だった。
距離の関係から、真ん中のピラミッドが最も大きく見えるが、これはカフラー王のピラミッドで最奥が最も大きいクフ王のピラミッドである。カフラー王のピラミッドの頂上付近には石灰岩の化粧石が残っているのが特徴だ。
パノラマポイントからの往路・復路で観光客を乗せたラクダの隊列や群れをはぐれて孤立したラクダが横切るのを目にしたが、ピラミッドを背景に砂漠をラクダが行き交う様子は大変旅情を掻き立てられた。

ラクダ
ラクダ使い
はぐれラクダ
9 pyramids view panorama point
右端に小さく3つピラミッドが写っている
パノラマポイントでの撮影
ピラミッド前を横切るラクダの隊列に旅情を掻き立てられる

クフ王のピラミッド前で降ろすよう依頼していたが、その手前で急に立ち止まり、代金とチップを要求してきた。代金は到着してからだと突っぱねるも、相手はチップを渡さなければ動かないと強情だ。両側が遺跡の壁で囲まれた、足場の不安定な場所であったため、無理にラクダから降りては怪我をしかねないと判断し、取り急ぎ財布内にあった100EGP紙幣を渡し、残りは到着してからと伝えた。
無事にクフ王前に到着し、代金としてチップを含めた600EGPを渡す。空港での両替後に直接来たため、先に渡した100EGP紙幣を除き200EGP紙幣しか手持ちになかったのだ。もっとチップを寄越せとせがんできたが、「先ほど渡した100EGPと合わせて200EGPもチップを渡した。不満があるなら返してくれ」と取り上げる素振りを見せると引っ込んでいった。
「少額のチップ(※十分妥当な額である)を渡し、それに不平不満を言うようならば、取り上げる素振りをして納得させる」エジプト旅行中のチップに関してはこの戦法を取ることにした。
後に出会う悪質なUber運転手に比べれば、彼らの"おねだり"がいかに愛らしく憎めないものだったか、この時は知る由もなかった。

ラクダから降りた後、大エジプト博物館に向かうべく、入場時とは別のゲートから出て、Uberを拾うことにした。しかし、別ゲート前は車やバスで大混雑しており、3〜4回ほどUberを拾い損ねてしまった。さらに別ゲートから出て暫く歩くも、マリオットホテルの私有地や一方通行が複雑に交差し、Uberを拾うに適した場所になかなか出ることが出来なかった。徒歩で向かおうにも高架や建設中の道路に邪魔され、どこをどう行けば辿り着くかさっぱり分からなかった。大通りは交通量が多く、とてもUberを見つけられる環境ではなかったため、団地に入り込み、なんとか停車できそうな路地を見つけてUberを拾うことができた。
エジプトでは、Uberの停まりやすい場所を探してからピックアップする必要があると学んだ。

大エジプト博物館

2024/12/29 (日) 10:15 大エジプト博物館到着
大エジプト博物館の入り口は高架から直接繋がっていた。徒歩では行けないわけだ。
入口でリュックサックを預け、入場すると巨大なオベリスクと壮大な建物が待ち構えていた。大エジプト博物館は世界最大級の博物館であり、2012年に着工された。総工費の半額を日本が円借款供与する他、JICAが技術協力支援するなど日本とな関わりも深く、建物や看板に日本語が書かれている。
2020年にオープン予定だったが、実はまだ完成しておらず、毎年開館延期を繰り返している状況だ。しかし、2023年末にエントランス部分(後述)のみオープンし、2024年10月にメインギャラリーがオープンした。残る目玉はツタンカーメン関連の展示で、これらは現在エジプト考古学博物館(Day7で紹介予定)に展示されている。
エジプト考古学博物館からエジプト国立文明博物館(Day7で紹介予定)にミイラが移転された際にGolden Paradeという盛大なパレードがなされたわけだが、ツタンカーメンの黄金マスクなどの移転においても恐らく同様に盛大なパレードを開くものと推測される。

大エジプト博物館 入口
大エジプト博物館 外観

【エジプト考古学博物館からエジプト国立文明博物館へのミイラ移転パレード】

大エジプト博物館 エントランスホール

エントランスホールでは9mほどあるラムセス2世の巨像が出迎えていた。こんな巨像を石から削り作ったことも、保存状態良く現代まで存在していることにも驚きである。
エントランスホールの右側はミュージアムショップやレストラン、ブランドショップが立ち並んでおり、左側は多数の石像や石棺が鎮座する大回廊となっていた。大回廊は階段とエスカレーターで移動できる。古代の遺物よりも空間や展示方法の斬新さや最先端感に感心を持った。2023年末の時点ではこの部分と映像ショーのみのプレオープンで3,000円以上の入場料がかかったそうだ。
メインギャラリーがオープンし、完全開館でない今こそ混雑し過ぎておらず観光に適しているのではなかろうか。

大回廊
大回廊
大回廊
大回廊の先からはピラミッドが見渡せる

大回廊を上がった先にはメインギャラリーの入り口がある。メインギャラリーは12のエリアで構成されており、縦軸が「社会」「王権」「信仰」というテーマカット、横軸が「初期王朝/古王国」「中王国」「新王国」「末期王朝/グレコ=ローマン時代」という年代カットとなっている。古代エジプトと我々は一括りにしがちだが、その歴史は非常に長い。クフ王とツタンカーメン、クレオパトラは同じ時代の人物ではないのだ。

【古代エジプト史の概略】
①先王朝時代
紀元前3,500年頃には古代エジプトは上エジプト(カイロ南部〜アスワン)と下エジプト(カイロ以北のナイルデルタ地帯)それぞれに王朝があった。
②初期王朝時代
紀元前3,000年頃に上エジプトのナルメル王(Day7でも紹介予定)が下エジプトを征服し、初期王朝を建国。メンフィス(現在のギザ近郊)を首都とした。
③古王国時代
紀元前2,686年頃、ジェゼル王の階段ピラミッドを皮切りに多数のピラミッドが建設されるようになった。クフ王、カフラー王、メンカウラー王のピラミッドが作られたのもこの時代であり、古王国時代と呼ばれる。
④中王国時代
古王国時代終盤には地方州(ノモス)の州侯が離反し戦乱の世となるが、紀元前2,040年頃メンチュへテプ2世がエジプト全土を再統一する。首都はテーベ(現在のルクソール)に置かれ、中王国時代と呼ばれる。
⑤新王国時代
その後、再び統治が揺らぎ下エジプトはヒクソスに支配されるが、紀元前1,570年頃にイアフメス1世が滅ぼし、エジプトを再統一する。この時代は新王国時代と呼ばれ、古代エジプト文明が最も栄えた。ラムセス2世やツタンカーメン、ハトシェプスト女王はこの時代である。
⑥末期王朝時代
紀元前1,069年頃からアッシリアやアケメネス朝ペルシアの征服を受けるが、紀元前332年にアレクサンドロス3世が占領し、ファラオとして認められる。
⑦プトレマイオス朝時代
アレクサンドロス3世の死後、紀元前305年に後継者であるプトレマイオスによって建国。紀元前30年に、後の初代ローマ皇帝となるオクタウィアヌスによって滅亡。クレオパトラ7世はプトレマイオス朝最後の女王だ。古代ギリシャからローマへの過渡期でもあり、美術史上はグレコ=ローマン(Greco-Roman)時代とも称される。
※厳密には各時代の間に戦乱の時代である中間期が存在する。

メインギャラリー

古王国エリアはクフ王やカフラー王に関する遺物も幾つかあり、その保存状態の良さに驚かされた。紀元前2,500年…今からおよそ4,500年も昔の遺物の数々に圧倒された。

01(Society×初期王朝/古王国)エリア
初期王朝/古王国時代の壁画
初期王朝/古王国時代の首都 メンフィスの遺物
クフ王の石碑
輪(カルトゥーシュ)に囲まれたのがファラオの名前で、うずらの雛(uの音)とボール?(khの音)、サハラツノクサビヘビ(fの音)の構成から「Khufu(クフ)」と記されていることが分かる
カフラー王の石像
03(Belief×初期王朝/古王国)エリアは未公開

中王国エリアは展示されている石像や石碑、石版がより保存状態良く、さらに色彩豊かなところが印象的だった。先の古王国から約500年ほど経っているとはいえ、4,000年も昔の時代である。
展示量のあまりの多さに疲れを感じ始めてきた。

04(Belief×中王国)エリア
05(Kingship×中王国)
06(Society×中王国)エリア

新王国エリアやグレコ=ローマン時代のエリアは展示内容が更に豊富だったが、膨大な展示量に飽きと疲れを感じ始めていた。カイロにあるエジプト考古学博物館にはその時代を象徴する有名な遺物が展示されており、日本語サイトでも多数見所紹介がなされているが、大エジプト博物館はメインギャラリーがオープンしたばかりで何を重点的に鑑賞すべきか分からない。(執筆時点ではこのnoteが最も詳しいかもしれない)
ツタンカーメン関連の展示が移送されるまでは、古代エジプトに強い興味のある人を除きエジプト考古学博物館で十分満足するものと思われる。

新王国エリアの展示
新王国エリアの展示
新王国エリアの展示
ヒエログリフを練習した石版(新王国エリア)
古代エジプト人もはじめから精緻なヒエログリフを書けたわけではないことを知り、親近感を覚える。
(恐らく)グレコ=ローマン時代の展示
ギリシャ・ローマ美術の影響を感じる
(恐らく)グレコ=ローマン時代の展示
(恐らく)グレコ=ローマン時代の棺

メインギャラリーを出て、ミュージアムショップに寄ると、ロボットがパピルス紙に、ヒエログリフで名前を記入するサービスがあった。200EGPでブックマーカーを作成してもらったが、ビニール等で包装されておらず、そのまま本に挟むとインクやパピルス紙の臭いがページに付着しそうな代物だった。なお、同機械はエジプト考古学博物館やエジプト文明博物館、カイロ国際空港にも設置されていた。ブックマーカーとしては使い難いが、短時間でオーダーメイド品ができるのはお土産として悪くないんじゃないかと思う。

ヒエログリフロボットの案内
ヒエログリフロボット

Abo Tarek(コシャリ店)

2024/12/29 (日) 13:00 Abo Tarek
大エジプト博物館内にもレストランが複数並んでいたが、どこも人が多く、また価格もやや高めに思われたため、カイロの有名コシャリ店でランチを取ることにした。コシャリとはエジプトを代表する料理で、米やマカロニ、スパゲッティ、フライドオニオン、レンズ豆、ひよこ豆などにトマトソースをかけ、混ぜ合わせて食べるものだ。
目当ての店であるAbo Tarekはカイロのエジプト考古学博物館付近の中心街にあった。1950年創業で、コシャリだけで4〜5階あるビルを建てたと言われるほどの人気店としてエジプト内外で知られている。
Abo Tarekでは、ノーマルorスペシャル(具材の違いだろうか?)、小・中・大からコシャリのサイズを選ぶことができる。スペシャルの小サイズとミネラルウォーターを注文したが、EGP70(210円)と非常に安く、また5分程度で提供された。
さっぱりとした癖のない味わいで万人受けしそうだと思ったが、苦手な人もいるらしい。この時は可もなく不可もない味だと捉えていたが、エジプト旅行中は味が濃く、脂っこい食事が多かったため、最終日にはコシャリが恋しくなっていた。

アブータレク
1階は持ち帰りやデリバリー対応が中心のようだ。
コシャリ

イブン=トゥールーン=モスク

2024/12/29 (日) 13:40 イブン=トゥールーン=モスク
旅行前に立てたスケジュールよりも1〜2時間早く観光できていたため、ハン=ハリーリに向かう前にイブン=トゥールーン=モスクへと向かうことにした。それなりに詰め込んだスケジュールだったが、博物館の観光時間がさほどかからなかったことやUberでの移動が速かったことなどからDay2とDay7では当初の予定に加えて観光することができて良かった。
この日にイブン=トゥールーン=モスクに寄った理由は、エジプトに現存する最古のモスクだからである。(同じくカイロにあるアムル・イブン・アル=アース・モスク(642年)がエジプトおよびアフリカ最古のモスクであるが、改築や再建によりその構造は現存していない)
イブン=トゥールーン=モスクはトゥールーン朝の創始者アフマド・イブン・トゥールーンによって879年に建築されたモスクで、高さ40mのミナレットが特徴だ。この頂上から観光初日にカイロの街並みを一望したいとも考えていた。

イブン=トゥールーン=モスクは無料で見学可能だが、モスク内に立ち入るには靴カバー(5EGP)を購入する必要がある。下町の喧騒に立地しているが、煉瓦デザインや観光客の少なさから、落ち着いた雰囲気の場所だった。
モスク内部からはミナレットにアクセスできず、回廊に沿ってモスク外側を反時計回りに周るとミナレットに登る階段を発見した。ミナレットを螺旋状に登るとカイロのビルや他のミナレットが多数乱立する様子を眺めることができた。エジプトの街は全体的にカーキ色で屋根がない建物が多い。屋根があると建築完成と見做され、固定資産税が課税されるからだそうだ。建築途上と見せかけるためか不明だが、建物の屋上にゴミが散乱しており、お世辞にも綺麗な景色とは言い難い。
更に上に続く内部の石段があったが、他の観光客に立入禁止であることを伝えられたことに加え、足を踏み外しそうな構造であったこともあり、登るのは遠慮した。

イブン=トゥールーン=モスク入口
イブン=トゥールーン=モスク内部
ミナレット
ミナレットからの景色
車のクラクションが絶えず聞こえてくる。
ミナレットからの景色
右手にはムハンマド・アリー・モスク(Day7で紹介)、
中央にはズウェーラ門(後述)のミナレットが見える。

ハン=ハーリリ(市場)

2024/12/29 (日) 14:20 ズウェーラ門
ハン=ハーリリのズウェーラ門まで向かおうにも、道が大混雑していることもあり、何度Uberを試してもマッチしなかった。イブン=トゥールーン=モスクからズウェーラ門までの道は単純且つ人通りが多いことから、目の前にいるトゥクトゥク乗りに30EGPでズウェーラ門までの送迎を依頼した。ヤンキー風のオラついた若者であったが、モンゴルでの白タクでも全身タトゥー男だったが問題なかったことや見たところナイフ等を持っておらずひょろっとした体型だったことから今回もどうにかなるだろうと考えてしまった。
轟音を出しながら発車し始めたが、すぐにその運転手の友人がバイクで追いかけ並走し、「俺とあんたはフレンドだ!観光案内してやろう」とツアー勧誘をしてきた。「ラ、シュクラム(アラビア語でNo Thank youという意味)」と何度伝えても、鬱陶しく蠅のように纏わりついてくる。無視し続けると今度は運転手とレースをし始めた。フラフラした蛇行運転で猛スピードを出すトゥクトゥクとゲラゲラ笑う運転手達を見て、白タクに乗ったことを後悔した。大通りでレースしたり他の車やバイクを煽り運転したりするなど調子に乗る若者二人組に冷や汗ものだった。道の途中でバイク男と別れて目的地に近付くと今度は運転手がしつこく何か語りかけてくる。轟音と訛りで殆ど聞き取れないが、マネーやキャッシュという単語から恐らく賃金交渉なのだろう。「I can't understand!! Go Zuwayla!!」と繰り返し続けた。
幸い無事にズウェーラ門に到着し、すぐに50EGPを押し付けて逃げるように降りた。トゥクトゥクは走行中に落ちそうになるのがデメリットであるが、このような場面では降りやすいというメリットがある。降車後も大声で何か呼びかけてきたが、無視して門の内側に駆け込んだ。よくファンタジーで外敵に襲われた村人が街の門内に逃げ込むシーンがあるが、この時ほど彼らの気持ちに共感できたことはない。ズウェーラ門が目的地だったことも運が良かった。
(実際のところ、トゥクトゥクもズウェーラ門を通過することが可能であり、門内部でも別のトゥクトゥクの勧誘に度々遭った)

トゥクトゥク

ズウェーラ門は1092年に建設されたファーティマ朝時代の城門だ。カイロは969年にファーティマ朝の宮殿都市として設立され、当時は街を守る城門が8つあったが、今日現存するのはこのズウェーラ門とナスル門(後述)、フトゥーフ門(後述)の3つのみである。ズウェーラ門は時代に応じて刑務所やモスク、公開処刑場として使用されてきた。1260年にはモンゴル帝国がエジプト侵略にあたって派遣した6人の降伏の使者の首がこの門に晒されたそうだ。夏に旅行したモンゴルとこのような歴史的な繋がりがあったとは驚きである。改めてモンゴル帝国の巨大さを思い知らされた。
ズウェーラ門の特徴として、門の上の2つのミナレットが挙げられる。これは1400年代にモスクとして増築されたものであり、それぞれ22mもあるらしい。100EGP払い、ミナレット内部に入ると、螺旋状の階段が続いており、真っ暗のため、スマホの明かりが必要となる。ミナレット頂上からはハン=ハリーリへの街路を見下ろすことができるが、やはり家々の屋上がゴミだらけで汚い。長くて暗い螺旋階段を登ったという達成感はあるものの、見晴らしはあまり良くなかった。

ズウェーラ門
ズウェーラ門のミナレット
ミナレット内部
ミナレットの頂上
ミナレットから望むハン=ハーリリ

ズウェーラ門を降り、ハン=ハーリリ方面にあるアズハルモスクへ向かう。ズウェーラ門から大通り( Al  Azhar:アズハル通り)に出るまではシャッター商店街で、観光客は殆どいない。アズハルモスク付近になると、スルタン=アル=グリー・コンプレックスやフルーツ店などを見かけ、活気を感じるようになった。

ズウェーラ門からアズハル・モスクまでの経路
スルタン=アル=グリーコンプレックス
モスクや霊廟が組み合わさった複合施設
David Robertsの原画による版画
"Egypt and Nubia"より
(Louis Haghe,1849)
木の屋根含め、昔から変わらない街並みであることが分かる
雰囲気のある道
フルーツ店
アズハルモスク

2024/12/29 (日) 14:50 アズハルモスク
アズハルモスクに入ると、ちょうどアザーンが流れ始めた。多くの旅行者がコーラン(イスラム教の聖典)が流れていると勘違いしているが、アザーンは礼拝への呼びかけで一日五回なされる。
「アッラーフ=アクバル(アッラーは最も偉大なり)から始まり、「アシュハド アッラー イラーフ イッラッラー(私はアッラーの他に神はいないと証言する)」、「アシュハド アンナ ムハンマド ラスールッラー(私はムハンマドはアッラーの使徒であると証言する)」と信仰告白が続く。煩わしく思う旅行者も多いだろうが、私はアザーンを暗記した上で訪れていたため、実際に生で聞けて良かった。

アズハルモスクの端に座って足を休めていると、猫が膝上に乗ってきた。先のトゥクトゥク運転手をはじめ、カイロの喧騒と疑心に辟易していた私にとって、エジプト到着後初めて訪れた平穏なひと時だった。なお、狂犬病は犬だけではなく、猫も持っている可能性がある。猫好きではあるが、下手に触ることはやめておいた。あまり猫を撫でなかったからか、10分もすると猫が膝から去っていた。

アズハルモスク内部
猫ちゃん
猫ちゃん

アズハルモスクを出ると、ハン=ハーリリ中心部までは大通りで挟まれており、両車線の真ん中は3mほどある柵で横断できなくなっていた。
だが、すぐそばに地下歩道があり、難なく反対側に渡ることができた。
ハン=ハーリリ中心部は土産物屋が立ち並び、あちこちから「見るだけタダ!」「ワンダラー」と客寄せの声が飛び交っていた。観光客の数もアズハルモスク側とは大違いで、国籍年齢問わず押し寄せていた。
SNSで有名な撮影スポットに寄ってみたが、特段感銘を受けることなく、人の多さからただ疲弊が増すだけだった。

土産物屋
ランプ店
様々なSNSやTVで取り上げられた画像
(出典:https://x.com/un_couple0804/status/1459815018048856065?s=46&t=wsSzjK2JIJenAl7NUVdrmQ)

【有名な撮影スポットの位置】

有名な撮影スポット(夕方)

2024/12/29 (日) 16:20 ファラハトグリル
休憩にカフェでも入ろうかと思ったが、カフェ自体があまり多くなく、幾つかあるカフェも満員で行列ができていた。大通りまで戻ると、ファラハトグリルというレストランがあった。このレストランは鳩料理を食べられることで有名であり、エジプト計画時からマークしていたが、想定以上に暗く不潔な店内の様子に入店を躊躇した。
すると中から店員のおじさんが卑屈そうに笑い、揉み手をしながら店の中に入るように促してきた。元々寄る予定のレストランだったため、ハイビスカスティーとハマーム=マフシー(鳩にご飯を詰めた料理)、モロヘイヤスープを頼む。
会話の中で日本人だと応えると、そのいかにもな「アラブの商人」という風貌のおじさんは、ニヤニヤ笑い、「オー!日本人!ニーハオ!」と大袈裟にお辞儀してきた。私は別に中国人と勘違いされること自体に不快感はないが、アラブ人はアジア人を下に見て人種差別的な言動をすることがしばしばある。今回はわざと戯けてみせたのか、無知ゆえのことなのか(後から考えるとあの観光地の中心で長年働いていて日本と中国の挨拶を間違えるはずがないわけだが)判断付かず硬直してしまったが、店の不潔さや店員の下卑た目付きなどが相まって不快だった。
(後日、カイロのモールで人種差別的な言動を受けた際は即座に相手に詰め寄り、二度と言うなと威圧的に説教した。海外旅行中の人種差別は珍しくないが、敢えてオーバーに怒りを表現することが大切だと考える。こういった差別には安全な範囲で草の根的に立ち向かっていくしかないのだ。)
また、注文した料理以外にも次々と「これはサービスだ」と前菜やデザートを持ってきたが、「サービスというが、フリー(無料)なのか」と確認する度に顰めっ面をして無言で取り下げていった。恐らく加算して請求するつもりだったのだろう。食事中も気を抜けないのがエジプトなのだ。

肝心の料理については、鳩肉は身が少ないこともあり、当初あまり美味しさが分からなかったが、食べ進めるにつれてパリパリとした皮と味の染みたご飯を美味しく感じるようになった。他方、モロヘイヤスープは不味くはなかったが、ニンニクが強すぎるためか、非常にオイリーで胃もたれしそうになった。
ファラハトはカイロ内に複数店舗ある有名店のため、他店舗ならばより清潔で良い接客だったかもしれない。味が悪くないだけに惜しい店だった。

モロヘイヤスープとハマーム=マフシー

2024/12/29 (日) 17:30 フトゥーフ門・ナスル門
食事を終え、次はフトゥーフ門とナスル門へと向かう。ハン=ハリーリの中心部(アズハル通り)からフトゥーフ門までの通りはムイッズ通りと呼ばれており、中世イスラムの街並みが色濃く残る。
道途中にあるモスクに寄りながら門を目指すが、それなりの距離があり、どんどん観光客が少なくなっていった。
フトゥーフ門に着く頃には地元民しか歩いておらず、レストランや土産物屋も殆どなかった。フトゥーフ門は11世紀に再建された門で、丸みを帯びた要塞型のデザインが特徴だ。ナスル門はフトゥーフ門から歩いて5分もしない場所にある。こちらは1087年に建てられたもので、全体的に角張った要塞型なのが特徴だ。
今回、ハン=ハリーリを南から北まで歩いたわけだが、これらの門によほど興味があるわけではないならば、中心部のみ観光するので十分だと思われる。

フトゥーフ門とナスル門を写真に収め、元来た道を戻る。あたりはすっかり真っ暗で、大きな犬も複数徘徊している。
足早にハン=ハリーリ中心部まで戻ると夕方よりも観光客が増えており、人混みを掻き分けて歩く必要があった。夕方のこってりしたモロヘイヤスープで胃もたれ気味になっていたこともあり、近くの土産物屋で香水瓶(後日砂漠ツアーで砂を詰めるため)だけを購入し、宿まで退散することにした。Uberが停車しやすい場所を懸命に探し、路地裏にUberを呼ぶが、渋滞でかなり待たされた。夕方から夜にかけてハン=ハリーリ周辺は大混雑するようだ。
何とか宿に到着し、明日からのアスワン・ルクソール2Dayツアーへの荷造りをして寝ることとした。朝3:00にツアーのピックアップが予定されており、体力確保のためにも早めに就寝したことは正解だった。

ファラハトグリルからフトゥーフ門までの経路
市場
モスク(詳細は不明)
アル=ハキム・モスク
アル=ハキム・モスクの内部
フトゥーフ門
ナスル門
通りすがりのレストラン
モスク(詳細は不明)
有名な撮影スポット(夜)
アル=フサイン・モスク前


Day3へ続く。

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