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繋辞(けいじ:copula)とは? 日本語や韓国語=朝鮮語に繋辞はあるのか? 同定詞(identifier)の秘密

「AはBだ」の「だ」――2つの項がある.この「だ」が繋辞である.
「Bだ」の「だ」――1つの項しかない.この「だ」は繋辞とは呼べない.
こうした「だ」「である」は同定詞(identifier)と呼べる.英語にはこうした汎用の同定詞はない.
日本語にも韓国語=朝鮮語にもこれら同定詞(identifier)、つまり措定辞=指定詞がある.
同じ平面で扱える対象を表すAとBという、2つの項を結びつけるときのみ、それら措定辞=指定詞を、繋辞と呼べる.「AはBだ」でも繋辞と呼べないものもある.
「省略」論や「名詞文」という名づけにも要注意!

 韓国語と日本語には、こんな面白い、似て非なるところがある。

 日本語には「AはBである」「AはBだ」という表現がある。例えば、「これはパスワードである」「これはパスワードだ」のように。文のこの構造は、言語哲学などでも基本的な構造としてしばしば例に出されるものである。この際の「だ」は、日本の学校文法では助動詞として扱われている。活用するので、用言の一種と見るわけであるが、英語のcanやwillなどのような独立した単語としての助動詞とは、ちょっと違う。どこまでも他の単語について用いられる付属語だからである。この場合の「である」「だ」を、一般言語学の観点から繋辞(けいじ)あるいはコピュラ(copula)と呼ぶこともある。言ってみれば、AとBという二つの項を等号のように繋ぐ働きを持つと見るわけである。繋辞とは言っても、もちろん数学の等号とは異なり、常に左右の項を入れ替えたりできるわけではない。なお、二つの項があっても、「明日は学校だ」「何と言っても、春はあけぼのである」などの「だ」「である」は繋辞とは呼べない。

 繋辞と言うには、「AはBである」のようにAとBの二つの項があれば、そう呼びやすい。しかし、「パスワードだ」とか「いい天気だ」とか「冗談でしょう?」のように、日本語における「である」「だ」はAの項なしでも用いられている。Aの項なし、Bの項だけで、当該の言語場において「Bである」と言えるのである。英語のA is Bに使うisを用いて、いろんなところでis Bと言えるようなもので――A is(Aがある)ではないことにも注意――、西欧語文法から見ると、驚愕の形である。機能的には、この「である」「だ」は広く、〈それをそれとして同定する働き〉を持っているわけである。念のために言うが、これは別にAという項が「省略」されているわけではない。それは既に西欧語文法の発想である。日本語文法の発想では、この「である」「だ」は措定辞(そていじ)もしくは同定詞(どうていし)(identifier)くらいに位置づけるのが良さそうである。

何と韓国語にもこれとそっくりの驚愕の形があり、韓国語文法では指定詞と呼ばれている。辞書形は-이다(-ida イダ)という形である。「AはBである」は「A는(ヌン) B이다(イダ)」。

これも面白いことに、「である」「だ」と同じように付属語で、活用する、用言の一種である。韓国の学校文法では、指定詞とせず、またちょっと異なった規定をするのだが、話が逸(そ)れるので、それには触れないでおく。措定辞だの同定詞だのと言うと、難しげに感じられるやもしれぬし、指定詞の名がわかりやすいので、ここでは「である」「だ」も、韓国語の-이다も、一緒に指定詞と呼んでおこう。

*以上は、野間秀樹著『韓国語をいかに学ぶか』(平凡社新書.2014)pp.182-184の小見出しなどを始め、一部改変したものです.
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韓国語の〈…である〉も知湧き肉躍る面白さだ

韓国語では「AはBである」は「A는(ヌン) B이다(イダ)」となります。日本語の「Bだった」とか、「Bでしょうね」のように、-이다(イダ)も活用しながら様々な形を作り得ます。体現なしの単独では用い得ない点でも、「である」「だ」とそっくりです。多くの韓国語文法論では指定詞と呼ばれる品詞に属する単語として扱われています。韓国の学校文法では何と이が「叙述格助詞」とされています。しかし格助詞が活用してしまっては、ちょっと凄いので、韓国の国語学者も学校文法は尊重しつつも、格助詞とは見ていないことが、少なくありません。

Bが母音で終わる単語であれば、「A는(ヌン) B다(ダ)」のように、語尾だけ残して、이を脱落させることができます。母音で終わる単語のあとなら、会話体ではまず脱落するのが普通です。この指定詞-이다(イダ)の語幹、単語の本体は-이-です。この単語の本体が脱落するというのも、用言であればなかなか珍しいことです。日本語でも「してしまう」が「しちゃう」と融合して短くなるのは、まま見られますが、「寄って行った」が「寄ってった」と、「行く」の語幹が脱落するような例は、稀です。この点でも-이다(イダ)は面白い単語です。

-다(ダ)って日本語の「だ」とそっくりだと、思われるかもしれませんが、この-다(ダ)はどこまでも語尾です。他の全ての用言にもつきうるものです。

 日本語や韓国語の〈…である〉は、常に〈繋辞〉なのではない

 ヨーロッパの大言語の文法では、英語の A is B. に典型的に見える is のような動詞を、コピュラ copula と言っています。日本語では繋辞(けいじ)と訳していますが、言い得て妙です。AとBを繋(つな)ぐことば、というわけですね。英語では linking verb (連結動詞)と説明したりしています。seem(…のように見える)やremain(…のままである)などという動詞も繋辞の一種とされます。co-は「共に」、ap-が語根で「固定する」「繋ぐ」意、-ulaは小さいものを表す指小形を作る接尾辞です。ラテン語の cōpula という形から来ていることばで、英語のcouple(カップル)も親戚です。

 日本語の「である」「だ」や韓国語の-이다(イダ)を、この繋辞とする文法論も少なくありません。しかし、日本語の「である」「だ」や韓国語の-이다(イダ)は、「AはBである」「AはBだ」における「Aは」の部分はなくてもいい。「Aは」なしでも「Bだ」だけで用いることができるのです。この点で英語のA is B. におけるbe動詞などとは決定的に違います。謂わば〈is B〉という形だけで用いることができるわけです。〈A is〉(Aが在る)でないことにも、ご注意下さい。これは英語などから見たら、驚愕の構文です。

 文法論的には日本語の「である」「だ」、韓国語の-이다(イダ)は、〈AはBである〉のように〈Aは〉という項があるときは、繋辞の働きをしていると言ってもよいのですが、〈Aは〉という項なしの〈Bである〉の形だけで用いられるときは、繋辞とは言えません。AとBを繋いでいるわけではないからです。この点で、繋辞として広く用いられる英語のbe動詞とは、随分違います。

 猫である――危ない〈省略論〉

 では「Bである。」とはどういうこと? 「吾輩は猫である。」とかなっていたら、英語母語話者やフランス語母語話者でも安心できるわけですが、「猫である。」っていきなり。でも日本語や韓国語では、大いにありです。

夏目漱石の未完の長編小説『明暗』の続編を文体までそっくりに書いた、水村美苗(みずむらみなえ)(二〇〇九)『続 明暗』(筑摩書房)なんていう超絶作品もあるくらいですから、「猫である。」が小説の書き出しなら、漱石先生の向こうを張って、なかなかいけるやもしれません。ちなみに漱石先生の弟子筋からの、内田百閒(ひゃっけん)『贋作吾輩は猫である』(一九九二 福武書店、二〇〇三 筑摩書房)を始め、平山忍(二〇一三)『吾輩らは島猫である』(ラトルズ)というカレンダーとか、森本哲郎(二〇一一)『吾輩も猫である』(PHP研究所)さらには大島弓子(二〇〇〇―)『グーグーだって猫である』(角川書店)全六巻なんていう漫画作品もあります。

「猫である。」で抵抗する方でも、「牛である。」なら大丈夫。いやそこまで行かずとも、「秋である。」――こう来られたら、窓の外を見やって、長嘆息しながら、一〇〇%自然な日本語だと共感してくださるでしょう。え、春だって。

韓国語でも盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の自伝『운명이다(ウンミョンイダ)』(運命である。二〇一〇、돌베개(トルベゲ))などいう題名の本もあります。

こういう議論ではすぐに、「それは省略されているのだ」という文法家が現れます。「いまここにいるのは、猫である」や「季節は秋である。」の「省略だ」とか。でもそれは文法家の後付けに過ぎません。「いまここにいるのは」や「季節は」などということばは、解釈されて作り出されたもの、事後的な創作物です。本当にあったもの、あるべきものが「省略」されたのであれば、それを少なくとも大多数の人が同じように復元できなければいけない。別の文法家は「これは猫である。」と復元するかもしれないし、「いまここに話題として提出するのは、猫である。」などと復元するかもしれない。「メタ言語」を持ち出して、「テーマとなるものは猫である」などと強弁しにかかるかもしれない。「とにかく猫である。」となるかもしれない。要するにやりたい放題です。そんなのは「省略」などと安易に言ってはいけません。言語を問わず、文法論にはこうした危ない〈省略論〉という陥穽(かんせい)が待っています。私たちが思わず嵌(はま)る落とし穴です。文法論で「省略」と出てきたら、疑ってかかった方が、まず間違いは少ないでしょう。運命である――この文に主語など全く必要ありません。

 〈同定詞〉identifierとしての「である」「だ」、そして-이다(イダ)

 それでは改めて、「Bである。」がbe動詞のような繋辞でないとすると、〈…である〉の一般的な働きはどういうこと? 端的に言って、〈措定(そてい)する〉働きをするものだ、くらいに言えそうです。日本語の〈措定〉はもともとドイツ語のsetzsen(ゼッツェン:据える。英:set)の名詞形からできた哲学用語Setzungの訳語です。「措(お)き定める」というわけです。措定ではちょっとドイツ観念論哲学のようで馴染みがない。文法論の術語としてはいま少し解りやすく。それでは、ことばによって〈同定する〉つまりidentifyする働きに着目し、アイデンティファイすることば=identifier 〈同定詞〉だと考えておきます。〈それをそれとしてアイデンティファイすることば〉です。働きの説明としては、ことばを問題にしているわけですから、〈言い定める〉働きくらいに言っておくのが、解りやすいでしょう。

「Bである。」とは、「B」をそこにぽんと措き定め、同定するもの、謂わば〈Bと同定する〉ものです。「何が」にあたる項がない場合にも、実(じつ)に、それ自身をそれ自身とトートロジカルに〈言い定める〉、〈BをBと言い定める〉ことになります。

術語は〈措定辞(そていじ)〉とか、〈措定詞(そていし)〉あるいは〈同定詞〉などと名づけてもよいのですが、韓国語文法で-이다(イダ)の品詞名として広く用いられている〈指定詞〉の名づけが、なかなか解りやすい。〈それをそれと指定することば〉、というわけです。日本語の「である」「だ」、韓国語の-이다(イダ)、これらを〈指定詞〉と呼び、一括して扱うことができます。指定詞は日本語と韓国語を比べると、英語などと比べていては全く見えない、さらにまた驚くべき違いがあるのですが、紙幅も限られていますので、これは他書に譲りましょう。

なお、「食べるよ。」などを動詞文、「嬉しい。」などを形容詞文といい、「本だ。」などを名詞文と呼ぶ文法家が多いのですが、これはやめた方がよいでしょう。名詞文というなら、「本。」のような文に限るべきです。「本だ。」「本である。」は、措定辞文とか、同定詞文とか、指定詞文くらいに言って、名詞で終わる名詞文とは、区別しましょう。そうでないと、「だ」「である」の存在意義が全く見えなくなります。「AはBである」「AはBだ」のようにAとBの二つの項が常に揃っているなら、コピュラ文や繋辞文と呼べますが、日本語や韓国語は揃っているとは限らないので、これらの名づけも不正確です。次のように区別するのが良いでしょう:

 動詞文、動詞述語文    食べるよ。僕は先にご飯食べるよ。
形容詞文、形容詞述語文  嬉しい。私はとっても嬉しい。
指定詞文、指定詞述語文  本だ。本である。これは今度出た本だ。
名詞文          本。これが今度出た本。

  なお、最後の名詞文に「名詞述語文」の呼称を付していないのは、「これが今度出た本。」のように構造的には述語文のように見える場合があって、時制などを欠いており、文の成分としての述語の役割を十全に果たし得ていないからです。

*以上は、野間秀樹著『日本語とハングル』(文春新書.2014)pp.150-157のフォントや傍点などをごく一部改変したものです.原文は縦書きです.
*「好き」などをいただければ、大変嬉しく存じます.

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