『死にがいを求めて生きているの』/ 朝井リョウ
堀北雄介のことを、どうしても否定できない自分がいた。彼は争いが排除された平成の世の中で対立相手を失い、死ぬまでの時間に役割を求めた。仲の良いはずの智也を運動会の組が違うというだけで目の敵にし、やったこともないジンパの復活運動、住んでもいない寮の自治運動でリーダーになり、陰謀論にも身を投げていく。彼は作品全体で、不快感を煽り、薄気味悪い存在として描かれている。
でも、どうしてだろう。彼のことを否定できない。自分も下手したら雄介のような行動を起こしてしまうかもしれない。いやむしろ、雄介のように生きたいと願っているのかもしれない。
対立があるからこそやる気がみなぎる、承認欲求の塊のような雄介の言動には自分も心当たりがある。学校のテストの順位が廊下に貼り出されることは無かったが、少なからず順位がつけられることが勉強のモチベーションになっていたと思うし、体育祭や合唱コンクールも一位、金賞が欲しくて練習していた。
大学に入ってから順位をつけられることや何かと対立することはめっきり減ったことにこの小説を読んでいて気付いた。3回生になった今、卒論の研究も大学院入試の勉強も就活も始まっていないから、簡単に言うと目的がない。だから今の生活に何とも言えない閉塞感を感じていたのかもしれない。電車で運ばれるように毎日を過ごして、自分こそ「死にがいを求めて生きている」のだ。
雄介は方法こそ間違っていたかもしれないが、やるせない毎日を打破するために一歩を踏み出していることは確かだ。
雄介が大学の学生寮の自治運動に割り込んでいるとき、他の寮生たちは取材に来た記者に雄介に対する困惑や文句をこぼしていた。雄介自身、寮生からのその視線に気づいていないはずがない。負の印象を持たれていることに気づいていながらも、そうするしかなかったのだ。「何かとの摩擦がないと、体温がなくなっちゃう」から。体温を失って生きているような今の自分よりマシな気がしてしまう。
智也は幼いころの原体験からの熱を持ち続けて人生の選択を続けてきた。それがとても羨ましい。自分が大学の学部学科を決めた理由なんてもう覚えてないし、そもそも理由なんてなかったかもしれない。智也への羨望があるからこそ、雄介との衝突をきっかけに智也の気持ちが「俺はたまたまやりたいことがあるから雄介を批判しているだけなんじゃないのか」と揺らいだとき、自分は完全に雄介側に感情移入していたことが辛かった。だからこそ、それでも雄介との対話を諦めなかった智也はとてもカッコいいと思う。
ラストシーンの後、2人はどんな対話をしたのだろうか。螺旋のように続く対立は止められなかったのだろうか。智也と亜矢奈、与志樹とめぐみのように、目の前にいる大切な存在のために今日一日を生きる。そんな「生きがい」が雄介にも、自分にも手に入ることを願うしかない。