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傍観の心地よさと現実との狭間で


物事に対して客観的にみたり、冷静な対応というか少し離れた場所から見ることが多い。瞬間的な感情によって出た行動が後から後悔に変わることがあるからだ。

過去によってできたフィルターで物事を見てしまうと、そのループからはなかなか抜け出せない。だから、どうなりたいかという未来のフィルターを通して物事を判断することによって少しずつ理想に近づいていく。

未来の理想に対して行動を少しずつ取れていれば何も問題はないのだろう。しかし、その手前のただ傍観するという行為で終わってしまうことがよくある。



自分がとる行動によって未来の形が変わるという意識を持つことによって、本当にこの選択でいい方向に進むのか不安になってしまう。

今までの生き方がダメだと気づいて、希望ある生き方に変えようと努力してみるとそこにも不安は押し寄せてくる。この選択で合っているのだろうか。今の選択より実は前の選択の方が良かったのではないか。

そんなことを考え出すと、今までの生き方と何が違っているのかわからなくなることだってある。今までだって、ちゃんと生きていたんだから。



いろんな思考がグルグルすることも疲れたので、直感的な楽しさを選ぶようにした方が悩むことがなくなる。

この楽しさというのは、一時的な快楽を求めるような楽しさではなく、夢中になれる楽しさだ。

自分から生まれる小さなワクワクを追うことにより、理想へ近づくと信じて進むしかない。それはもちろん、しなければいけないこともついてくるだろうが、夢中になっていれば乗り越えられる。



そんな精神的な話をしたところで、生きているのは結局現実であり、いつでも物事はしっかりと流れている。何もしなくてもお腹は空いてしまう。精神論で生きていけるのであれば、誰だって生きていける。

知識をどれだけ集めたところで結局行動が伴っていなければ、現実は変わることはないし、物理的にエネルギーがあるのはそれしかない。

しかし傍観者にとって一番心地いい状態というのは、何もしないポジションだから、行動こそ辛いものとなる。



流れている状態に対して干渉せずただ眺めている。

乱されることなくただのんびりと過ごす。



しかし、精神的な心地よさしか反映されていない。もちろんそれが必要な時もあるだろう。しかし、生きていくには物理的な部分も満たしていかなければならない。


精神エネルギーでお腹が回復する設定はこの世界ではない。そして循環しているのが自分の中でしかないという点も気づくべきだろう。


傍観の心地よさを理解した上でしっかり現実的な行動をしていかなければならない。こんな現実があったら楽しいだろうなという傍観者らしさの視点から少しずつ行動をして理想を落とし込んでいく。

そんな人たちが現実を作っていくとお互いが過剰に干渉せず、お互いに理想の現実を作っていくことはできないだろうか。

エネルギッシュで混沌とした世界から、穏やかで理想的な世界へシフトするには傍観者たちが少しづつ現実に降りてくることによって可能になるのではないだろうか。


身近なところから少しずつ行動を変えて生き、心地よさの範囲を広げていけると良い方向に進むと信じよう。



現実を満たすには時間がかかりそうだ。




傍観者の戯論

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