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感情表現ができなくてもいい


自分の感情を客観視してしまうことはよくある。自分の中で自分を確立できていない時や、どこまで表現するべきか基準が定まっていないときは余計に混乱してしまう。



傍観者にとって、みんなが楽しんでいるのを見ているポジションが好みなのだ。しかし、それはある程度存在を消せる時であって、そういう奴だと認知されているのであればの話だ。ポジションが決まっていない、ふんわりとしたラフな状態の時こそややこしくなる。

いつも眺めているだけでよかったのだが、ふとした時に自分を表現しろということになり、どうすれば良いのかわからなくなる。自分の感情でさえも客観視してしまったことで、表現の仕方がわからない。そんなわからない状態でさえも嫌なので、自分の感情に対しても逃げがちになる。


自分が苦手だと思う事柄に対して、早い段階で危険をキャッチする。また、その環境で起きている雰囲気もわかり、その空気に同調してしまうこともある。

また、みんなが楽しんでいる時に同じように騒がないといけないと感じてしまうこともある。一人だけ雰囲気に乗っていないから、楽しんでないと思われるかもしれないといったところだろう。


傍観者は傍観者を立ち振る舞えば良い。


単純にこれだけでおだやかになっていく。今まで、そのポジションを貫いてきたのであれば、その傍観者の視点をそのまま表現すれば良いのである。自分の主張を求められる場合も、いつもの傍観者視点を述べたら良いのである。

それが場の雰囲気を壊すことになろうとも、調和の役割を持っていると認識したら良い。または、基準点に戻るという言い方だろうか。これは外からの視点をいうことができるからだ。


感情表現ができないというのは言い方を変えれば、その場の雰囲気に流されず、多角的な視点を持つことによって適切な判断ができる人だ。

物事に対して入り込める人が羨ましいと思うことがあるだろう。何も気にせず自分を表に出して、明るく輝いている人が良いと思うこともあるだろう。

その人たちと比較して、自分を下げるようなことはしなくて良い。


自分がどういった振る舞いをしたいのか、どういった人間になりたいのかという視点をもち、それを堂々と振る舞えば良い。感情表現できないと思う人は、感情表現をしなければいけないと思い込んでいる。

そのままでいいんです。

そしたら、研ぎ澄まされていき、自分の本当の感情と向き合うことができる。それを大事にしていれば何も心配いりません。



傍観者の戯論



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