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人間関係といきすぎた相互理解


いきすぎた相互理解は破滅への片道切符である。

半分皮肉、半分本気で言うと、

そもそも相互理解の前に、自己理解すらままならない人間が僕を含めて大半。自分の長所短所や、礎となるアイデンティティの解像度すら怪しい。

それで、他人の理解なんて出来るのだろうか?
自分の理解すら出来ていないのにだ。っていうのがまず出発点である。

[注]ここでいう「理解」とは相手の人格や、アイデンティティをわかろうとすること。とする。


さて、人間関係において多くの人の理想とは、お互いが理解し合った深い関係になれること。という社会通念のような、虚空の理想論のようなものがふわふわと存在している。

僕もなんとなくそんな考えで生きてきた。
気心知れた友達、親友的なものが数人いれば良いかなと思っていたが、最近はそんなこともないかもなと思ってきた。

そもそも冷静に考えてみると、関係を深めたところで最終的にわかり合えるのか、良いことが起きるかと考えると、実はそんなことも無い。

恋人なんて良い例だと思う。
お互いが関係を深めて理解しようとするけれど、結局多くのカップルは別れる。夫婦同士でもそうだろう。

相互理解したと思っていたけどよく考えてみると理解していなかった。もっと関係を深めようとしたら理解出来ない部分が出てきた。

うまくいかない恋人や夫婦、友人関係というものは、どうしてもお互いのことを深く、無闇と言ってもいいくらいに理解しようとしてしまう。

一見、相手のことを理解しようとしていて良さげに見えるが、大抵理解できない価値観が出てくるわけで、相互理解をゴールとしているとここで詰む。

無論、友達同士でも相互理解は不可能である。

だが、友達は相互理解しなくとも関係が維持できる点が大きな違いだ。なぜなら、関係の時間的密度をコントロール出来るからである。

要するに「そんなに価値観も合わないし、あんま理解出来ない人とは距離を取っておこか〜」ってことだ。頻繁に会うのはしんどい。かといって断絶するほどでもない。みたいな人は誰しもいるだろう。

いわゆる浅い関係というもの。価値観は理解出来ないような人でも、1年に1回会うか会わないかなら、案外それはそれで楽しく話せたりする。

ただしカップルやパートナーは、時間的密度を簡単にコントロール出来ない。

1年に1回連絡するかしないかみたいな関係性は常識的に考えてほぼ無理だろう。カップルやパートナーという関係は、時間的密度が高いことをある程度内包している形態だからだ。

1年ぶりに、「やっほ〜!最近何してる?」なんて会話をするカップルは、よほど奇人同士でも無い限り成立しない。

だから、"相互理解をゴールとする"カップルは多くの場合で破綻する。

まずは、相互理解の呪いから解放されよう。
相互理解しようとしても大体無理なので、お互い自立した存在で、干渉しないくらいがお互いのためである。


ということを踏まえた上で、人間関係のあるある論である「広く浅く」と、「狭く深く」はどちらが良いか考えてみる。

さっきの前段を踏まえると、広く浅くが良さそうに思える。

ちなみに僕は前まで狭く深く派だったけれど、やっぱり価値観が凝り固まる。同じ人間とばっかり関わっていると、価値観はアップデートされないし、先鋭化した狭い思想になりがちだ。

普段関わらないような人と話す方が世界が広がるし、自分の思考の偏りにも気付ける。
数年ぶりの旧友と話してみると、思いがけない発見や気付きがあったりして良いものだ。

浅い関係がまるで悪かのような印象はあるが、どちらかというと相互理解を深めようとしすぎて生まれる取り戻せない軋轢の方が大概だ。

どうせ他人は理解出来ないので、お互いになんとなーくわかってる感出してて、お互いに自立した世界を持っている。そんな干渉し合わない関係性が一番持続可能性がある。

強い相互理解を求めること、さらにいうと共依存は破滅への片道切符でしかない。

という意味で、広く浅くの方が良いと結論付けた。
目指せ!サスティナブルな人間関係!

そもそも僕は、人間関係に強い永続性みたいなものを求める哲学よりも、「そのへんをふらふらしていた人同士が、たまたま場末のバーで出会って、一緒にトランプやって楽しんだ関係性」みたいな、そういう感覚を持っている。

人間同士の関係性なんてもっと刹那的で、
儚くて脆い関係性なんだと再定義すると、
楽になるし、より美しいものだと思える。


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