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「大人のフリ」が令和の生き方の分断を生む
役に立つとか立たないとか、出来るとか出来ないとか、金になるとかならないとか。
これらは僕らを縛る見えない「二極」だ。
いつからだろう、「大人」がこんな風に、二極でしか考えられなくなっているのは。
子供の頃は、そんな枠組みなんて気にしなかったはずだ。振り返ってみると、何が楽しいのかわからないような遊びを延々とやっていたり、純粋にやりたいことを、ただやっていただけのはずだ。
そこには「役に立つ」とか「金になる」なんて基準はなくて、やりたいからやる、という純粋さだけがあった。
でも大人になるにつれて、
いつの間にか「意味」を求め始めた。
「何かをするなら結果が欲しい」
「努力するなら報われてほしい」
「時間をかけるなら金が欲しい」
だけど、よく考えてみると、この「意味」を求めるって、「なんで?」と思わないだろうか。
そもそも、何かに意味を見出そうとすればするほど、それが手に入らないときの空虚さは深まるし、「意味ありき」でしか自分の行動を決められなくなる。
多くの人は「大人にならなきゃ」と思って、「大人のフリ」をしているだけなことが往々にしてある。
社会の「大人像」というなんだかふわふわした、誰が決めたわけでもない、「なんとなく大人っぽい価値観」に沿って大人のフリをしていないか?
音楽、洋服、趣味、食事、話題。
「大人っぽいものを選ぼう」
「大人はこういうのは聞かない」
「大人だからやめておこう」
「大人だから意味のある選択にしよう」
「いやいや、好きなの選べば!?」というのが僕の感想だが、実際にそんな風に「大人のフリ」をして本当の自分に素直に生きれない人はたくさんいる。
何かやりたいなら、意味なんて考えずにやればいい。しかし、「大人は意味や結果ありき」だと思い込んで、やらなかったり、我慢したり、選択を曲げたりする。
だから、そういうのを度外視している人を見ると「子供っぽい」とか「大人になれよ」と言って、自我とのバランスを取るのだろう。
これが今の世の中の、「生き方による分断の仕組み」だと思う。全ては「大人のフリ」と「それを度外視するかどうか」の間で生まれた、謎の力学だ。
「大人のフリ」をしている人が、本当に羨ましいのは「自由な人」、「枠に囚われていない人」だ。
例えば、仕事を選ぶとき。
好きなことを追いかけるか、安定した収入を選ぶか。どちらかを選べば、もう一方を捨てたような罪悪感がつきまとう。両立できればいいけれど、現実はさすがにそう甘くない。
周囲の人が「夢を追いかけて仕事を辞めた」と聞くと、「楽しそう!」と純粋に思う人がいる一方で、「それで食っていけるのか」と冷めた目で見てしまう人間もいる。
僕は、この前の記事でも書いたけれど、金になるとかならないとか、本当に意味のない価値観だと思っている。
だから、周りで夢に向かって頑張ってる人に対して「食っていけるのか」とか「成功するのか」という価値観で見たことがない。「楽しそうじゃん!」と思うだけだ。
けれども、多くの人はその物差しに縛られてしまう。「食っていけるのか」なんて文言で、人の価値まで決めつけるのは、僕はあまり"美しい作法"とは思えない。
むしろ、金になるかどうかを気にするせいで、何かを生み出す喜びや、ただ楽しいだけの瞬間みたいな、そういう純粋な瞬間や、インスピレーションを見失ってしまうことの方が怖い。
冒頭の言葉に戻ろう。
役に立つとか立たないとか、出来るとか出来ないとか、金になるとかならないとか。