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63円の命を生きる就活生

令和4年、学生の私は63円。

『一戔五厘の旗』を読んだ。
著者は花森安治。
彼は『暮しの手帖』を創った初代編集長である。


先日倉俣史朗展目当てで足を運んだ世田谷美術館で、戦後の雑誌にまつわる展示が同時開催されていた。

そこで目にしたのが花森安治の随筆と「一戔五厘の旗」の写真だった。

その旗は、一張羅の背広のような立派なものでは決してなかった。
ぼろを継いで接いだものだと一目でわかるような、けれどこれがシンボリックでいいじゃない!と誇り高く見せつける、高潔なぼろ布だったのだ。

ぼくらは ぼくらの旗を立てる
ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない
ぼくらの旗のいろは
赤ではない 黒ではない もちろん
白ではない 黄でも緑でも青でもない
ぼくらの旗は こじき旗だ
ぼろ布端布をつなぎ合せた 暮しの旗だ
ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し台や屋根に立てる
見よ
世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ
ぼくら こんどは後へひかない

(花森安治『一戔五厘の旗』より)

題の一戔五厘とは、もちろん継ぎ接ぎした布自体の値段ではない。

人間の生命の値段だ。

軍隊というところは ものごとを
おそろしく はっきりさせるところだ
星一つの二等兵のころ 教育掛りの軍曹が 突如として どなった
貴様らの代りは 一銭五厘で来る
軍馬は そうはいかんぞ
聞いたとたん あっ気にとられた
しばらくして むらむらと腹が立った
そのころ 葉書は一銭五厘だった
兵隊は 一銭五厘の葉書で いくらでも 召集できる という意味だった
(じっさいには一銭五厘もかからなか
ったが……)
しかし いくら腹が立っても どうすることもできなかった
そうか ぼくらは一銭五厘か
そうだったのか
〈草莽そうもうの臣〉
〈陛下の赤子せきし〉
〈醜しこの御楯みたて〉
つまりは
〈一銭五厘〉
ということだったのか
そういえば どなっている軍曹も 一銭五厘なのだ 一銭五厘が 一銭五厘を
どなったり なぐったりしている
もちろん この一銭五厘は この軍曹の 発明ではない
軍隊というところは 北海道の部隊も 鹿児島の部隊も おなじ冗談を おなじ アクセントで 言い合っているところだ
星二つの一等兵になって前線へ送りだされたら 着いたその日に 聞かされたのが きさまら一銭五厘 だった
陸軍病院へ入ったら こんどは各国おくになまりの一銭五厘を聞かされた

(花森安治『一戔五厘の旗』より)

戦時中のハガキの値段が一戔五厘。
ハガキ1枚でお前らの代わりなどいくらでも呼べると罵られた時代。

令和4年、ハガキ1枚63円。
ハガキどころか、求人サイトやメールの通信料で代わりが呼べるのだが。
indeedとタイミーで募集中のバイトを漁り、布団に寝転がりながらzoomで就活説明会に参加する私はまあ63円と言っていいだろう。

そういえば、キリスト教作家である遠藤周作は、共産主義者を嫌う友人に対し
「そんなにアカが嫌いなら、その反対で資本主義を勧める組織に入れ。それはカトリックだ」
と洗礼を勧めたというエピソードがある。

私は宗教にあかるくないため、この話を聞いてカトリックは清貧を説くのではなかったのか? と混乱し、キリスト教について勉強する必要を感じた。

それはともかく、私は夫婦別姓も同性婚も皆てんでばらばら好きにしたらよろしい、とは思うが、かといって左だリベラリストだという感覚もない。
だから63円の人生などごめんだ! 社会の駒になりたくない! と叫ぶつもりもない。

63円、値段がつくだけましだ。
どうせぼろでも誰かは愛着をもってくれる。
重い背広も貧ずれば質屋に入れられる。

63円のぼろとしてでいい、いつか見つけてくれる誰かと縁が生まれるよう、ぼろはぼろなりに転がってみる。
それは祈りで、祈りは闘志だと思う。


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