63円の命を生きる就活生
令和4年、学生の私は63円。
『一戔五厘の旗』を読んだ。
著者は花森安治。
彼は『暮しの手帖』を創った初代編集長である。
先日倉俣史朗展目当てで足を運んだ世田谷美術館で、戦後の雑誌にまつわる展示が同時開催されていた。
そこで目にしたのが花森安治の随筆と「一戔五厘の旗」の写真だった。
その旗は、一張羅の背広のような立派なものでは決してなかった。
ぼろを継いで接いだものだと一目でわかるような、けれどこれがシンボリックでいいじゃない!と誇り高く見せつける、高潔なぼろ布だったのだ。
題の一戔五厘とは、もちろん継ぎ接ぎした布自体の値段ではない。
人間の生命の値段だ。
戦時中のハガキの値段が一戔五厘。
ハガキ1枚でお前らの代わりなどいくらでも呼べると罵られた時代。
令和4年、ハガキ1枚63円。
ハガキどころか、求人サイトやメールの通信料で代わりが呼べるのだが。
indeedとタイミーで募集中のバイトを漁り、布団に寝転がりながらzoomで就活説明会に参加する私はまあ63円と言っていいだろう。
そういえば、キリスト教作家である遠藤周作は、共産主義者を嫌う友人に対し
「そんなにアカが嫌いなら、その反対で資本主義を勧める組織に入れ。それはカトリックだ」
と洗礼を勧めたというエピソードがある。
私は宗教にあかるくないため、この話を聞いてカトリックは清貧を説くのではなかったのか? と混乱し、キリスト教について勉強する必要を感じた。
それはともかく、私は夫婦別姓も同性婚も皆てんでばらばら好きにしたらよろしい、とは思うが、かといって左だリベラリストだという感覚もない。
だから63円の人生などごめんだ! 社会の駒になりたくない! と叫ぶつもりもない。
63円、値段がつくだけましだ。
どうせぼろでも誰かは愛着をもってくれる。
重い背広も貧ずれば質屋に入れられる。
63円のぼろとしてでいい、いつか見つけてくれる誰かと縁が生まれるよう、ぼろはぼろなりに転がってみる。
それは祈りで、祈りは闘志だと思う。
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