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セックスとジェンダー

女であるということは、それだけで毎月ある程度の苦痛を味わう。男にとってはあまり触れないでおこうと思うところかもしれないが、毎日、何気なくすれ違う誰かが痛い思いをしている。薬を飲んだり、身体を温めたり、家ではゆっくり休むようにして、みんなそれなりに辛い時期を乗り越えている。

「男はいいよなあ」という話ではない。ある時から女の体というものは、新しい生命のための宿を毎月用意するようになるのだ。一定期間使われることのなかった宿は、使い回されることなく毎月取り壊されて、再び新しい宿を用意する。まだ見ぬ新しい生命のための居場所を、女は常に新しい状態にして、その身に保ち続けているのだ。それを神聖なことだと思う人もいれば、男社会の中で生きるにはハンデだと感じる人もいる。ただ、この機能がなければ生命は人体に留まり必要な栄養を得ることができない。男の体にはその機能がないため、その身に命を宿すことができない。

これは「どちらが良いか」という問題でもない。多くの生物には、「男」と「女」という「性」によって役割を分担され与えられた機能があること。自分の性にはない機能は、もう一方の性が担っていること。これは、それ以上でもそれ以下でもない「事実」である。ただ、これを理解して性と関わることのできる人間は決して多くないように思う。「女のくせに」と己よりも能力値の低い存在のように女性を卑下する男。「男なんだから」と子を叱る親。それぞれの性を自分の都合のいいように特徴づけて相手に押しつけ、無自覚に「性差別」をしている人は、恐らくそれを「常識」と勘違いしているのだろう。

産休や育休を取る女性に対しての目がいつまでも冷たいのも、「自分には子どもを産む能力がない」ということを失念している男性が如何に多いかに依るところが大きいと考えられる。会社だけを見ていれば、確かに仕事量は産休の要らない男性の方が多く、休暇は少ないかもしれない。しかしそれは会社の裁量不足によるものであり、女性の妊娠出産のせいではない。満足のいく休暇を与えられていれば、男性が女性の休暇に文句を言う筋合いはないはずだ。会社に声を大にして言えない不満を、自分より弱い存在だと勘違いしている女性へ向けてしまうのは、己の心の弱さを見せつけているようなものだ。

互いの性に足りないものを補い合うために存在している異性に対して、あげ足を取るようなことばかりしている人間は、そのうち性別を超えて、人間性を疑われるようになってくる。そうなる前に、一度立ち止まって、己の心の弱さと向き合えるチャンスが、誰にでもあればいいのだが。現実も、人の心も、思うようにはいかないものだ。

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