贅沢恐怖と葛藤しながら 24/09/19
今から列車に乗って、京都へ向かう。有り難い事に例のクリスチャンの某さんが飲み会に誘ってくれて、急遽外出するのである。幸いな事に、私にはこうして遊びに誘ってくれる仲間が、何人もいる。そして私もその仲間を大切にしたいと思う。会いに行きたい、と思う。しかし、私は、私のその願いが歓迎されていないように思うのである。私は私の怠慢を恐れている。それは私の恥部である。怠慢を指摘されるのを、非常に恐れていると言わざるを得ない。結局今も、何か不正をしながら列車に乗っているような気がする。私は、いつかこのような社交の時間を思い出して、きっと泣いてしまうのだと思う。ああ、終焉が怖い。いつか来る終焉が、あまりにも怖い。お前はもう終焉だ、と言われるのがあまりにも怖い。いつまでも、いつまでも、このような日々であって欲しいと思う。この日々に「それから」は要らない。
贅沢恐怖的な不安定さ以外は特に波風は立っていないが故に、余計にその波風が際立つ。私は、医者から休めと言われている。なので休んでいる訳であるが、今日の朝から夕方にかけては、案外しっかり休めたと思う。気が向いたらゲームをし、あまり腹も空かないので多少昼食を取り、昼からはゴロゴロ寝転んだり、寝転ぶのに飽きたら真宗聖典を開いて教行証文類を読んだりした。意図的に電源を落として、気が向くままに時間を使っていた。けれども、結局、休息とは何なのだと、考えざるを得ない。では、終焉は来ないのだろうか。そんな事はあるまい。そんな事はあるまいという説を、一度は自信満々に否定してみたいものである。世間の言う休息とは、結局は何かへの依存の事を指すのではありませんか。私も、周辺を気にせず、無我夢中に何かへ依存してみたい。思えば、私からはもう無我夢中という状態が失われている。懐かしさが、無我夢中という言葉の中にもあった。私は、汚れてしまった。もう二度と、本心では笑えないのである。
追記
結局今日雨は降らなかった。なので暑さも変わらない。